手が凍えきってしまったから、何も自らは掴めない。
足が凍えきってしまったから、もう一歩も動けない。
だから、もう、自分に、明日は来ないのだ。
last song
「何で、あの子供を拾ったんですか?殺すコトもできたでしょう?」
告げるアフロディーテの前には、教皇の仮面をつけた男が立っている。
彼の眼下には、今、壮大な十二の神殿がひろがっていた。
その先にあるのは、蒼い空と蒼い海。
「……別に、気紛れだ」
あの子供に、別段、意味などなかった。
ただ、───あの場所ではもう誰も殺せなかっただけだった。
「それに、私が手を下さなくとも…アイツが全部、殺してしまう」
最終的に紡がれた言の葉。
投げやりな言葉。全てを諦めきった声音。
アフロディーテが顔をしかめた。
「…貴方は、」
「何だ…?」
「───いいえ」
そのままアフロディーテが押し黙った時だった。
神殿の奥から慌ただしい足音。静寂を破る子供の高い声。
誰かが咎める前に、子供が先に口を開く。
───仮面を被った青年に。
「はい、コレ!」
「………なんだ、これは…?」
子供が青年に突如差し出してきたのは、泥にまみれ手折られた花々。
温かな手に握られ、よたった姿になっていた。
「だって、花畑を探していたんでしょ?でも、見つからないって。だから、見つかるまでの代わりに…。きっと見たい花とは違うんだろうけど…」
「…………」
「だから、もう悲しそうな顔をしないで」
その一言に、今まで伏し目がちだったサガの双眸が、驚きに染まる。
「…悲しそうな、顔…?私がか…?」
「うん」
深く眉間に皺を寄せ、問い返しても、子供は無邪気なままに揺るぎなく答えてくれる。
それを──サガは一瞬、恐く思った。こんな感覚を前にも味わった。
「僕も一緒に探すから。ね、絶対、見つかるから」
差し出されたのは笑顔と、そして数本の花々。
サガはしばらくソレを見つめてから、やがて何も云わずに受け取った。
*
「…ったく、あのロス太郎…俺達が餌付けしたり、世話してやってるってのに、いっつも教皇にべったりしてやがって…」
忌々しそうに同僚がそう云うのを、アフロディーテは穏やかに笑って受け止めた。
「妬いているのか?」
「莫迦いえ」
二人のいる神殿から見える景色の中に今、法衣をまとった長髪の青年と、その青年の腰ほどの背しかない子供が手入れのされた薔薇園を歩いている。二人、仲良く…というか、子供が青年の手を無理矢理ひいて、歩き回っているだけなのだが、あの青年がこうして子供とただ歩いている姿を見るのはどこか微笑ましい。
二人…そして今此処にいないもう一人を含め、彼らはあの青年が狂った姿を知っていた。
もう取り返しのつかない「事」を起こしたあの日。
あの日、叫き狂い、嘆き苦しんだ一人の人間の姿を、彼らは見ていた。
そしてそれ以後の、彼も。
何処か覇気を無くし、己をなくし、ただ流される現実に漂うだけの…存在。
もうかつての彼を見る事はないのだと、三人は思った。
もうあの日が戻らなく、 あの日はひどく尊いモノであったと、その時にして知った。
「あんな抜け殻の様な奴のどこに、ロスは惹かれたんかね」
「…デスマスク……」
「オレがどんな悪さしたって、もう怒らなくなっちまった奴が…」
完全に感情を閉ざした彼は、もう二度と、あの頃の様に笑う事はなくなった。
笑う事も、ただ泣く事も、もう何も───あの日に全て置いてきたのか。
はたまた…凍って、溶ける事のなくなっただけなのか。
(凍った全てを溶かす春の陽射しは、もう永遠に喪われたのだから。)
「…………それでも、私達は、」
「…アフロディーテ」
苦しそうに言葉を紡ごうとしたアフロディーテを遮り、平素よりも幾分かたい声音でデスマスクがその名を呼ぶ。不思議そうにアフロディーテが顔をあげた───そして、彼もまた見た。
「………………サガが、笑ってる……」
何が原因というわけではなかった。
別段、それはとてつもなく他愛ない事であったのだ。
その日は、ロスに連れられ、十二宮全部を二人で歩き回っていた。
ロス曰く、一緒にその花畑を探そうという事だ。
だから、一人で勝手に出歩くなとも付け足された。彼が手をつないでくるから、だから手を繋いで並んで歩いた。別に離す必要がなかったから、手を離さないままにしていただけだ。十二宮付近にあるならもうとっくに見つけているとは思ったが、子供が満足するならそれでいいかと思って何も云わなかった。ただ、ロスに連れられるままに歩いた。………歩いている間中、しつこくロスに質問攻めにされる。
「どんな花畑なの?」
「…蒼い花が咲いている花畑だそうだ」
「じゃあ、どこらへんにあるの?」
「さぁ…誰も知らない庭だと云っていた」
「──誰と、サガは約束したの?」
その質問には少し間が置いて答えられた。
「………誰なんだろうな…、もう私には判らないから…」
返されたロスの言葉は、
「変なの」
「…変…?」
「誰なのか判らないヒトとの約束した場所を、いつまでの一人で捜していたの?本当にそうなの?」
「………………」
「大切なヒトだったんじゃないの?」
その問いには答えられなかった。
答えるには、自分には勇気が足り無すぎた。
「あ!夕陽!!」
子供の声によって、サガも顔をあげ、夕陽を見た。
真正面から、その太陽の最期の残り陽を受ける。
綺麗な、綺麗な…そして、壮大な景色。
どこか胸の奥を締め付ける…懐かしくも、切なくなる景色だ。
「綺麗だね、夕陽」
「……ああ…」
素直にそう呟いた。
確かに、綺麗だ。
でも、同時に不安感も生まれる。
あの大地に還っていく夕陽を見ると、何故か、どうしても───何処かに帰りたくなるのだ。帰らねばならぬと、焦るのだ。
(何処にも、もう自分が帰る場所などないのに)
今、在る場所は、あそこは偽りの座だ。
「サガ」
いつのまにかロスは後ろに立っていた。
振り向いたサガは、夕陽に照らされた子供を見る。
光の加減によって、今だけはその髪が焦げ茶に見えた───まるで、彼の様だと、ふと思った…その矢先だった…。
「帰ろう、サガ」
優しい声音と、柔らかな笑顔。
一瞬、目眩がしそうだった。
───そして、さしのべられた掌。
(……ああ、そうか……)
サガはその掌に、何も抗う事なく、自然な手付きで重ねた。
(そうか……私も、帰れるのか……)
「………そうだな…ロス」
「あ!」
「…ん?」
「やっと名前呼んでくれたね!」
「……そうだったか?」
「そうだよ」
「………そうか、すまなかった」
その瞬間、サガは薄く、微笑んだのだ。
静かに、柔らかに、沈み行く太陽の陽を受けながら……穏やかそうに彼は微笑んだ。
それは自然に…何も意識せずにでた笑みだった。
笑ったサガ本人でさえ、自分が今笑っているだと判らぬ程に。
それを見て、驚いたのは、遠くから傍観していた魚座と蟹座の聖闘士だけだった。
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