────どうぞ、貴方に やすらかなる夢路を。



スカイ


「もう良い…判った。判ったよ。降参だ」

そう云った彼は、笑った。
先程まではあんなに苦しそうな顔をしていたのに。

「きっと、全ては仕組まれていたんだ」

つぶやく口の端ににじむ笑みはただ優しい。

「女神は、残酷だな」

涙で汚れた頬に優しい手がそえられる。
その温もりを感じて、一瞬世界が止まる。
見上げた先───彼の背後に広がる世界。
その世界は、ただ吸い込まれてしまいそうな程に青い。
空が、青い。
鮮やかなその色に魅せられる。


「一緒に、逃げようか?…」


何処へ行くのかは、聞かなかった。



***



数多くの贈り物の中の一つに、「鳥」があった。
鳥籠に入れられた鳥を、誰かが彼に贈ったのだ。
汚れない真白い翼を、彼は愛おしんでいた。
人々に愛されてやまないその慈愛深い笑みを、その鳥にもそそいで。
大切に大切に育てていたのを、自分は知っていた。
少し過保護すぎるのではないのだろうかと思う程に、
彼は本当に、大切に育てていたのだ。
───その空を飛べる翼をもつ者を。
そう自分が云えば、彼は
お前が無頓着すぎるんだと、苦笑して。
宝物かの様に大切に鳥の羽根を撫でてやっていた。
今にして思えば彼は、
その羽根に憧れていたんだと思う。
決してヒトの手では届かない彼方にある世界にいけるモノを。


それから数ヶ月後だった。
彼が、その鳥の首を手折ったのは。
まるで、美しい花の茎を手折るかの様に。
彼は自然な動作で、ソレを成した。
その時はもうすでに、自分達は
後戻りのできない場所まで来てしまっていたのだろう。



***



珍しいモノを見たと思い、シュラはその場で立ち止まる。
自宮から下、もう主のいないその宮の柱に寄りかかりながら、歌うかの人を見たのだ。月夜の下、その姿は異様に綺麗に思えた。
金の髪がさらさらと風にゆれ、月光によって煌めきなびく。妖しく、煌めく。今は、神が与えたかの様なその美貌が無骨な仮面に隠されるコトもない。
深く澄んだ水面の色の様な瞳を伏せながら、歌われる唄は慈愛の唄。かつて、月の女神が人間の男に眠りを与える為に歌った唄だった。優しく、美しい調べは、夜風によって確かに耳に届く。
月の光の様に柔らかな歌声がやまない様にと、シュラはソッとその佳人に近付いていった。
─────でも唄は、月が闇夜に隠れると同時に途絶える。


「…夢を、見た……」


唄の代わりに、暗闇の中から そう呟く声が聞こえてくる。
その声は、ただ穏やかだった。
優しく、いつかの様に泣いてしまいたくなる程に優しい声音だ。
ずっと昔、仲間と一緒に、聴いていた優しいソレ。
震える喉から、どうにか声を絞り出す。


「…………どんな、夢を?」
「懐かしい…昔の夢だ。内容は、忘れてしまったよ」
「……昔の、」


何も見えなく不安ばかりを煽る闇からは、未だ夢の様に優しい声が紡がれる。


「…空は、何故青いのだと思う…?」
「空、ですか?」
「ああ、空だ」
「…………さぁ…」
「やはり、お前にも判らないだろう?」


月が、またその光を地上に投げ落とした。
濃厚な闇がやや薄れていったが、もうあの柱には誰もいなかった。
シュラは、一人その場に取り残される。
耳にはそれでも未だに、あの切ない調べが残っていた。



***



アレは、いつのコトだったろうか。
もうずっと…ずっと遠い昔のコトだったように思える。

それまでに必死で築いてきた夢の城が瓦解した瞬間。
胸に去来してきたモノは何だったのか。
判らぬままに、焦る思いのまま
取り憑かれたかの様に愚行をしでかした。
後戻りなど出来ぬ程に。
全てが壊れていく様を
一種の傍観者として楽しんでしまっていた気もする。
生まれ育った聖域の裏からの崩壊を。
その後どうこうではなく
ただ壊れていって欲しかったのだ。
自分の取り巻く環境の全てを…
ただ消し去ってしまいたかった。
────己という存在が壊れてしまうコトを切に望んでいた。

壊れてしまえば良かったのだ、全て。
自分という存在を否定するかの様な世界を。
最初に裏切ったのは、父と母だった。
血一滴たりとも繋がっていない…
ただ村の占師の戯言を信じて
自分達双子を山に捨て去った親。
そんな自分達を拾った人間は、でもその後
はした金と引き替えに聖域へと売り捨てた。
最初の内は優しげな顔をして近付いてきた「友人」達は
それでも自分より力がある者と知った途端
当たり前かの様に妬んだ。
真正面切って何か云う者などいなかったが。
思えば、他人とまともな喧嘩一つ自分はしたコトもない。

(…そうだったか……?)

黄金聖闘士になればなったで
女官や神官達は腫れ物かの様に扱う始末。
弟との生活を守る為により地位を高め様として
家に帰るコトもままならなくなれば
今度は今まで味方だった弟まで牙を向き始めた。
誰といても安らげなかった。
この世界の何処にも自分の居場所がないかの様にも思えた。
……何処にも…、泣ける場所一つなく。

(───嘘をつけ)

…うるさい…。

(一つだけ、一つだけあっただろうに…)

黙れ……

(アレだけは。風変わりなアレだけは、違っただろう)

──────黙れっ!!!!




***



ああ、彼の人にはどうしてこんなにも「紅」が似合うのだろうか。
昔は畏怖ばかりの色でしかなかったソレも、やはり彼の体に飾られれば何故か自分はいつも「綺麗」などと思ってしまうのだ。
何故なのだろうか。
─────そんな答えを今更突き止める術などないのだけど。

そこまで思考が巡ってから、ようやく自分はアフロディーテは血まみれの男のもとへと駆け寄った。彼でさえ足を止めたくなる程の、鮮烈な赤の色彩だった。

「……教皇っっ!!」

部屋中、彼の服にべったりとついているソレと同じ色が飛び散っている。
あまりにも鮮やかなその色に魅せられて、一瞬動けなかった。

思えば、あの日から心休まる日など一日もない。
いつも彼は罪の意識に苛まれていたのだろう。彼は誰よりも強い力を持ち、でも誰よりも不安定要素の多い精神状態を抱えていた。



「────で、自分でコレはやったのか?」

前よりもすっきりした寝室を見渡した後、シュラがそう訊く。
この部屋の主によって家具は全て倒され、壊されていた。
そんな部屋を主の代わりにアフロディーテが片づける際、使えそうなモノ以外は全て直すのも面倒なので処分してしまった。だから元々殺風景であった部屋が更に何もなくなった。以前と大きく変わったところといえば、白い壁が鋭利な何かで滅茶苦茶に傷をつけられ、掃除後にも未だ紅い色が変色して残っているという所だろうか。

「ああ、状況によるとそうなるな」
「…何してたんだ、教皇サマは」

溜め息混じり、苛立たしげな声に、でも心配しているのだと判るので、アフロディーテは視線を天幕のしかれたベットへと移す。中には、この部屋の主であり荒らした張本人でもある者が薬により今は安静に眠っていた。

「持っていた短剣で、そこらかしこを傷つけ壊した。それで足らなくて、自分の体にも刃をいれた。大方そこらへんだろう。医師には、精神的ストレスやらで気が狂ったなんだと云われたが…」
「気が狂うと、自分の首まで切ろうとするのか」

彼が今何を見てそう云うのか、彼の視線の先を追わずとも判る。
天幕の中の人物の白い首筋は今、同じ白い包帯で何十にも巻かれていた。
白い包帯はそこばかりでなく腕にも腹にも体のいたる所に巻き尽くされている。
決して浅くはない傷が、紅い傷が今も包帯を滲ましてた。

「さぁな、生憎そういう経験はないものでな」
「あったら堪らない」

そう云って、彼は眠っている佳人の元へと近寄った。造りの美しいその顔が微動だにしないままそうしていると、まるで死んでしまっている様だ。陽に焼かせるコトのない白い肌が更にそう見せさせる。
シュラは、その彼の首にへと軽く手を置いた。
まるでそこに流れる血の流れを確かめるかの様に。

「……声を、また聴きたいんだ」

誰に、云っているのか判らない言葉だった。

「シュラ…」
「昨夜、あの人の宮に『教皇』がいたんだ。歌っていた…相変わらず綺麗な声で。……また、聴きたい……。あんな声、滅多にきけるモンじゃない」
「……あの人の…宮で…───ああ、そうか」
「……アフロディーテ…?」

「今日は…ちょうど十年目か………」

─────あの人が、亡くなって。
そうして、彼の人が重い仮面を被った日…。



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