最後の楽園5
禁忌の森で林檎を口にしたイヴが最初に犯した罪は、ヒトを愛する事だった。
神は怒り悲しみ、哀れんだ。

追放された二人は罪を抱いたまま、人間の祖となる。


***


その青年が一歩進む度に、空気がちりちりと焦げる様に鳴いた。
彼を包む小宇宙は静かにでも確実にこの広間を満たし、その強大さを見せつける。威嚇するものではないが、底知れぬ何かを秘めていた。
隅で控えるラダマンティスは息苦しいと思った。人間のもつものではない。
赤絨毯の上を静かに歩いていたその青年が不意に足を止める。玉座の後ろから少女がようやく現れたからだ。

「……どういうつもりだ、神の祝福を受けし娘」
「あらまあ、珍しいこと、サジタリアス様。只今、冥王は完全な覚醒に至っておらず不在故…」
「そういう事を訊いているのではない」

荒げずとも、よく響く声が強い口調で告げられた。青年の紡ぐ一音一音が小宇宙に共鳴するのか、肌がびりびりと傷む。少女を睨むかのように強い眼差しは翡翠の色。

「何を、と」
「何故、眠るアテナの闘士を再び目覚めさせようとする」

予測していた言葉なのか少女は顔色一つ変える事もなく静かに答えた。

「冥王のご判断です。自軍の兵にこれ以上無駄な死を与えぬよう…。アテナの闘士ももう一度命を得られるのだから満足でしょう。全てはお優しい冥王の御慈悲。
……ですが、サジタリアス様にはもう関係のない事でしょう?」
「私のもとにいる双子座も蘇らすつもりだろう」
「生前は、射手座である貴方様と聖闘士の高みを目指し競った程の人間。冥王も望んでおります」

そう告げて、黒髪の少女はにこりと微笑んだ。射手座の名をもつ青年は眉をひそめる。相変わらず制御なく垂れ流す小宇宙は、次第に熱をはらみだす。そういえば、射手座の宮は火に連なっていたと今頃思い出した。

「彼は記憶をなくしている」
「ヒトの記憶など…どうにでもなるものですわ。もとより双子座は忘れたのではなく、思い出せないだけ。思い出したくないというのが正しいのでしょうか。それに彼は、時折記憶の片鱗を思い出していますわ。気付いているのでしょう。だから、双子座は何度も自らの命を断つのです」

その瞬間、ラダマンティスのすぐ横の壁が轟音とともに砕けて大穴があいた。煙とぱらぱらと落ちる破片、そして、自分の体が余裕で入る程大きな穴に、流石の翼竜も息をのむ。刹那に高まった小宇宙はでも今は先程と同じように静寂に戻っていた。
青年もまた先程と変わらず静かな面もちのまま、少女を見つめている。
少女も微笑みを崩さなかった。

「如何に星の御方といえど、冥王と契約を成している私に手を出す事は大罪。おわかりでしょう?罪に問われなくとも、冥王によって強制的にあの魂は消滅します」
「触れさせやしない」

また、ぴりりと空気が軋んだ音をあげた。

「────そういえば、ご存知ですか?」

少女の長い漆黒の髪が風もないのに揺れる。
少女はそれでも微笑んでいた。

「海王との戦いで、とらわれの身となった女神が今歌い続けている事に…。アテナの小宇宙が此処まで届きますわ」

きっと、彼にも届いている事でしょう。
その瞬間、青年がはっとして何処か遠くに視線を彷徨わせる。きつく眉根をよせた後、舌打ちとともに小宇宙を取り巻いたまま、青年はその場からかききえた。
一瞬の事だった。

威圧的な小宇宙から解放され、ラダマンティスがむせる中、少女は呆れたように溜め息をつく。冥王と通じる少女は気付いていた。

「また、死んだわ」


***


「死んで…神格化する程の小宇宙だあれは」

騒動後、疲れ切ったラダマンティスが酒場で同僚であるミーノスにそうもらせば、彼は鼻で笑って告げた。

「恐れる程ではありませんよ」
「貴様は見てないからそういえる」
「だって、未だその方は神になりきれていない。神でない人間ならば、恐れる対象にはならない。まぁ、パンドラ様は別ですけど」
「何故、そう言い切れる」

不快気に問えば、簡単ですよと返ってきた。

「神は囚われないが、ヒトは囚われる。何かに執念している者は、それに振り回されて簡単に脆くなれてしまう」

その星の方もまた、其処をつけば簡単に崩れますよ。

「…よく判らないな」
「じゃあ、手始めにまず貴方は恋でもしてみるといい。愉快な人生がおくれますよ、きっと」


ラダマンティスは矢張り首をひねる。
あの様な人外の小宇宙を抱く人間を翻弄させる程の泣き所が双子座の者だというのなら、どんな人物なのだろう。一度見てみたいと思った。

この時翼竜は、数ヶ月後その弟と運命の出逢いを果たす事を知るよしもなかった。



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