| 今でも確かに覚えている。 あの頃、君といた全ての景色とともに。 *** ふと赤ん坊の泣き声に気付いて、サガが顔をあげた。横にいたアイオロスもつられて上を見る。今いる人馬宮よりももっと上、この聖域で一番天に近い神殿からその泣き声はきこえてくる。 「…先日産まれたばかりの女神かな」 「………そうだろうな」 「女神のお声はどんな歌姫よりも気高く美しいとか聴いていたけど、矢張り噂は噂だ」 「未だ降臨されたばかりなのだ。外見は普通のヒトの子と同じ赤子だぞ」 そう告げ、さっさと先に一人で降りていってしまう友人に、待てよと云ってアイオロスも後を追った。今日はこれから闘技場に行き、黄金聖闘士の候補生達の最終指導を行う。数日後に、子供達の継承式が迫っていた。女神の降臨にあわせ、黄金聖闘士を12人そろえたいのだろう。聖域自体が最近は慌ただしい。12人がそろえば、次は次代の教皇決めだ。 「……日々、焦っていくような気がする」 歩きながら、ぽつりとサガが言葉を零す。 「忙しいからなぁ…」 「それもあるが」 聖域に女神が帰還した事により、サガの周囲は大きく変化した。変化というよりも、状況が悪化し始めたのだ。 まず、頻繁に悪事を重ねるカノンをついに教皇が牢に入れると言い始めた。双子座の空きとして育てられたカノンの拳は聖闘士の拳だ。その拳でヒトを害す事を繰り返すのならば、腱を断つか、一生牢で暮らすかどちらかだと告げられた。カノンを説得しようにも、最近姿を見せる事もない。 次に次期教皇の問題がある。射手座か、双子座か。当事者よりも周りの人々が関心を寄せ、こっそりと話題にしているのをサガは知っている。 そして、神誕生により、更に聖闘士が周りから神聖視された。サガの一挙一動にヒトは注目する。…息苦しいと思った。生きれば生きる程、追いつめられていくようなきがした。何か、眼に見えないものに。 「…何処か遠くに行ってしまいたい」 思わずもらした言葉は、云った途端サガの本心となる。他の何よりもかえがたい真実に。何処かに行って、消えてしまいたかった。今すぐ、此処じゃない何処かへ。 「何処へ?」 「…………ただ、息をして……生きる事だけが許された世界に」 そうサガが告げた時、また後ろから…今度は先程よりも大きな泣き声がきこえてきた。 「きっと、教皇の仮面がおっかなくて泣いたんだな」 アイオロスが呟いたので思わず笑う。そんな事を云って、ましてそれを笑うだなんて、他のヒトとでは出来ない事だった。後輩である子供達の前では尚更で。冗談も、本音ももう彼の隣でしか云えない。いつか、その隣をも失う日が来るのだろうか。 「なぁ、赤ん坊が何故産まれた時に泣くのか知ってる?」 「…いいや」 「自分が此処に生きているんだ!って大声で主張しているらしいよ。大声で、周りのヒトに、地上に、神に…叫んでいるんだってさ」 「…此処に生きてる、か」 二人に、風が吹いた。金色の髪をなびかせ、上空へと消え去っていく風を思わず眼で追う。たとえば、あのような存在になってみたいと思った。翼のような。 眼差しの先にみえたのは白い鳥だった。 * 赤ん坊の泣き声が聞こえた。未だ、聞こえた。 生きているんだと、サガを嘲笑うかのように現実を教えてくれる。 サガの心はすでに崩れ、死んでいるというのに。…未だ。 「お前が、逃げるのか?!他でもないお前が!」 血まみれの短剣を投げ捨て、サガが叫ぶ。荒れ果てた神殿の中で。一人。 「私を殺しもしないで、………お前だけが逃げるのか?!此処から!こんな世界だけを残して!私一人だけが此処で!」 サガが欲した全てを奪ったまま。 「アイオロスっ…!!」 何処か、遠くへ。 此処じゃない何処かだったのならばこんな結末を生む事もなかったのだろうか。 *** 翼があったからといって、何になるというのだろう。 翼をうらやましがっていた少年を思いだしながらアイオロスはそう感じた。翼なんて重いだけだし、一人で飛ぶしかない翼はとても悲しいものだ。 憎かった。憎くて、悔しくて、苦しくて、…悲しかった。 アイオロスはこのまま、弟を置いて、聖域を捨てて、地上を守る為に鍛えた力も使えないまま、赤子を抱いて死ぬのだ。汚名を被ったまま。 逃げたがっていた少年は結局逃げずに自滅し、勝手に自分を巻き込み、出ていきたくなかったというのに無理矢理出て行かされた。何という我が侭な少年だったのだろう。一言も相談しなかったくせに、自身を殺してくれるのはアイオロスだけだと思っていたし。本当に、勝手だった。 何処へ行ったって、楽園なんかない。何処にもあるわけない。何処まで行ったって、あるのは空と地上とヒトだけ。変わらない。何て愚かな少年なのだろうか。愚かで、そして、それでも愛おしかった。 アイオロスは、何処にも行きたくなかった。あの地だけで充分だった。だって、あそこには愛した全てがある。弟や、後輩、教皇に…。 (そして、君もいたんだ) ────それだけで、自身にとって何よりも楽園に近い場所だったというのに。 「……それでも、あんな顔をさせるぐらいなら………何処かに連れて行ってやれば良かったのかな」 正しい答えなんか今更判らない。今までずっと一緒にいたつもりだったけれど、サガの泣き顔はあの時が初めてだった。それだけが事実で真実だった。 …自分達はこんな結末を辿る為に、あの地で出逢ったわけじゃなかった。 アイオロスは女神を抱いたまま、眼を瞑る。瞼裏には、いつかに見た綺麗な星々があった。…星が綺麗だった夜、二人が聖衣を継承した日。 あの星の下で、二人は誓った。互いの未来に。 『サガの魂が永遠に輝きを失わないように』 『お前の翼が永遠に美しいままであるように』 二人で、聖域を守ろうと。 遠くもないいつかの日。未だ、穏やかだった日に。 …思わず、アイオロスは泥だらけの顔で微笑んだ。 苦しくても悲しくてもこの世界はその全てを含んで、今思い出の中で何よりも美しいものとなっていた。そう、それがきっと全てだったのだ。 腕の中で、女神が歌う。生きてる、未だ生きてるよ、と歌う。ああ、そう、未だ自分の翼は折れていないんだっけ。思い出して、アイオロスは重たい瞼を持ち上げた。眼に飛び込んできたのは、満天の星々。彼の涙のように綺麗だった。 思った瞬間、どうしようもなく彼に逢いたくなった。 036. まなざし → 100. 最後の楽園 13年前のあの日。眼差しの先にあったもの。 |