| 遠くで激しい小宇宙のぶつかり合いを感じて、シオンは振り返った。その後ろを手をひかれてついてきたサガも、シオンの背にぶつかる前に慌てて足を止める。 シオンは険しい表情で、肉眼では見えない遙か遠くを見つめてた。 「…足止めぐらいにはなるかと思ったが、矢張り駄目か」 気付かれずあの花園を抜け出すところまでは成功したのにとぼやきながら、溜め息をつく。四人の黄金聖闘士と対峙しているのはたった一人の男だというのに、それでも小宇宙の輝きからして差は歴然。未だ完全に小宇宙が偽りの体に馴染んでないとはいえ、情けないとシオンは思う。…まぁ、戦う理由が彼らにとってはとてもくだらないものだから、本気になりにくいのかもしれない。 「本来ならばもっと楽に女神のもとへ行けるはずだったのに…、お前のせいでもあるのだぞサガ。反省しろ」 「え…?は、はい……すみません」 判ってないはずなのに、サガはびくびくしながら謝った。体がシオンに歯向かうなとでも身にしみて覚えているからかもしれない。そんなに己は脅威な存在だったのだろうかシオンは首を傾げる。 「本当に何も覚えていないのか」 サガは無言で首をふる。うつむくその姿が、昔の少年に重なってシオンには見えた。 最初の頃はそうやって何もかもに申し訳なさそうな顔をして生きていた子供だった。小さな両腕で弟をかばいながらも。全ての眼を恐れ、苛立ち…。しばらくしたら、でもそんな姿を見せる事もなくなった。堂々とし、何事にも優れ、優しく賢い、…皆の羨望の眼を集めた。成長したのかと思っただけだった。でも、結局は何も変わっていなかったのだ。ただ全部を内へ内へ溜め、溜め込んで、崩れたのだ。内側から、がらがらと。 弱く儚い子供だったのだと死ぬ間際に思った。 「だが、今はお前だけを甘えさせてやる事も出来ない。死しても、魂は女神の許。お前は、お前の憎んだ世界に今一度蘇らねばならない。もう裏切りは許さぬ。あの楽園の事は忘れろ」 「………………」 記憶など、あの地に行けば嫌でも蘇ってしまうだろう。今、問題なのは追ってくる男の事だけだった。早急に、サガを冥界から連れ出さねばならない。 未だ此処は地獄の奥。きりたった崖と崖の間をつなぐのは縄と木でできたみすぼらしい渡り橋のみ。橋の下には遠くレーテ河の支流。渡ろうと一歩踏み出した時、だった。 「…あそこからどうやって連れ出せたのかと思えば…。なるほど、シオン様は生前に女神から資格を頂いていたんですね」 あの楽園に踏み入れる事を許された数少ない魂の一つ。 静かな声に、シオンはふんと鼻で笑う。サガの指が小さく震えた。かまう事なく、シオンは振り向く。そこには、覚えている頃よりもたくましく成長した青年がいた。 「久しいな。サガが莫迦な事をしたと思えば、次はお前か。本当に、嫌になる奴らだ」 「相変わらずお元気そうで。肌が若返ってぴちぴちしてますよ」 「ぴちぴちの18歳にしてもらったからな。お前達よりも若いぞ」 「それはまた」 「まぁ、もう歳をとらないお前には関係ないが」 サガが眼を見開いて、シオンを見た。アイオロスは笑みを消し、静かに真っ直ぐと教皇であった男を見つめる。かつて、二人を引き合わせ、そして二人を引き離した人物だ。 「お前がヒトを捨てた事など知ってるぞ。死後、お前の魂は神々に愛された。エリシオンの住人になる事を許される程。神と同等の位を与えられる程」 「…死後はそのまま星として、守護星であった射手座の名を与えられました。ヒトの魂として静かな眠りを得る事も許されず、エリシオンからずっと世界を見つめて…」 告げて、翡翠の眼が閉じる。 「星であるお前はだから、冥王の声もかからなかったわけか。もう女神の聖闘士ですらないからな」 「…サガを連れていくのですか?」 問われた言葉。シオンの掴むサガの手がまた震えた。先程からじっと青年を見つめている。そこ以外見えないかのように。13年前もそんな瞳で見つめていたのだろうか。それを一瞥してから、シオンは口を開く。 「サガはヒトだ、愚かしくも悲しいヒトの業を強く抱いた。お前とは違う。そして、未だに双子座に愛された聖闘士だ。我らの魂は女神の為にある」 「はなから裏切る気ですか、冥王を。恐れ多い」 「無論。死しても魂は女神のもとだと、お前にも教えたはずだ」 「サガだけは、返して下さい」 風が吹いた。地獄だといっても何も変わらない風が。シオンは思わず笑う。 サガが行方不明になった時も、風が吹く中この少年とこうしていたきがする。揺るぎない少年の声を聞いた。真っ直ぐな翡翠の瞳も。その先に何を必死に追い求めていたのかも。全て変わらず、また今目の前に現れた。 「…………結局、手に入れて、傍にいて、どうなった」 「…………」 「何も変わらなかっただろう?サガの魂の傷つき方からして、また自殺でもはかられたか。いや、本当に死に至ったのだ。一度ではない、何度も何度も。楽園に閉じこめ、お前が守ろうとしても何も変わらなかった。…お前達は!完全に消滅するまで、眼は覚めないか?すでに一度殺されたというのに」 手の中で何かがぶるぶると震える。判ってはいるが、目の前の青年を先にどうにかしなければならない。だから、強く握り返してやった。それだけしかできなかった。 「云ったはずだ!お前が守ろうとすればする程、すれ違うだけなのだと。他の人間なら良い、だが相手はサガだ。お前じゃ、サガの複雑さを理解できないし、サガもお前のその真っ直ぐさが理解できない。お前達では駄目なのだと。何度繰り返せば判る?!」 青年が眉をひそめる。苦しそうな表情にもみえた。 「記憶を忘れ、不完全な魂でお前は何が満足できた。全てから遠ざけ、籠に閉じこめる事が!それで、何を得られた?お前は、そんな事をずっと望んでいたのか?」 「しかし…、俺が何もかも失い、何もかも残していき、此処へ一人辿り着いて眠る事も出来なかった苦しみをシオン様は知らない…。だから、サガが現れた時…どうしてももう一度やりなおしたかった」 「サガが現れる?莫迦な。お前自らが呼んだのだろう」 「そうかもしれない。判らない。でも、もう手放せなかった」 「だから、籠の鳥のようにしたと」 「……………」 「お前達のきずなはその程度だったのか?あの日、あの瞬間。お前がサガを生かす道だけを選んだ想いは。サガが13年間聖域に留まった想いは。苦しんだあの全ては。そうやって、奪い奪われ…傷つけあうだけのものだったのか?それだけだったのか?アイオロス!」 名を呼んだ、その瞬間。 切り裂くような叫び声が、二人のすぐ傍で発せられた。 驚いてシオンが手をゆるめたそのわすかなすきで、サガは逃げしだした。耳をおさえ、髪をふりみだし、悲痛気な声をあげながら、よろめいた足取りで、それでも。 風によって揺れる橋の上へと、逃げた。 「サガ!」 どちらが先にそう叫んだのか。気付いた瞬間には、サガの体は宙に投げ出されていた。相変わらずの美しい金の髪がきらきらとひろがり、白い衣の裾がはためいて。暗くよどんだ地獄の世界だというのに、そこだけが美しかった。 のばされた手も間に合わない。 ─────暗い谷底へと、サガは飛び降りていったのだ。 それは塔で何度も起こった事の、繰り返しでしかなかったが。 033. きずな → 063. 薄氷 |