| 君の笑顔だけが全てだったこの世界から。 *** しくじったとカノンは思った。 同時に、脳裏によぎったサガの表情を思い出して更に後悔する。 (ああ、どうして…。ただ一人の人間を守る事すら出来ない。) 逃げ込んだ路地裏でしばらく息をひそめて辺りを伺うが、追ってくる気配はもうない。どうにかまけたのだと安堵しながら、指先は自然と自宅の電話番号を押し始めていた。 「……サガか?」 『カノン…!遅いじゃないか……今、何処なんだ?…………未だ、帰れないのか?』 「悪ぃ…。でも、今帰ってる処だからさ。大人しく待ってろよ」 『…………………』 「サガ?」 『………………怖いんだ』 携帯を握り締めるカノンの指が震えた。瞼裏には、外出前にみたサガの悲しげな表情が思い出される。いつも穏やかに微笑み、これまでの不遇…義理の母達の苛めにもどうにか耐えぬき、泣き言一つ云わなかったサガが初めてカノンに見せた脆い部分だった。 『…いつこの目から光が失われてしまうのか……考えるだけで怖くなるんだ。何も見えなくなってしまったら……私はどうなってしまうのだろう……』 「すぐ家に戻るから!落ち着けよ、サガ」 『……カノン』 「何だ?」 『……………何も見えなくなる前に………最後にもう一度だけ、アイオロスに……逢いたいんだ』 逢わせてくれるだろうか? 震えるその小さな願いに、カノンは思わず頷いた。見えないのに、うなづいた。胸がつまって、息苦しくて、声が出なかった。でも、声をふりしぼって、告げる。 「……逢わせてやるよ」 その時、肩をたたかれた。ハッとしてカノンが振り向けば、そこには見慣れたしかめっ面。ただ一つ違う処は、後ろに部下を控え、その手に手錠を持っている事。 「…ラダマンティス……」 「俺から逃げられると思っているのか?」 「思ってなかった…」 カノンの描いた贋作が買われる現場を、彼の瞳に見られた瞬間から逃げられないと判っていた。不正を許さないとばかりに真っ直ぐ鋭い眼差しに、カノンはそう感じていた。 でも、────…瞬間、蘇ったのはサガの声。 「………嫌だっ!」 「カノン!」 捕まえようとする男の手を振りきって、カノンは金が入ったバックを抱え逃走する。だが、逃げ場などない。逃げ込んだ先には高い壁。後ろには、警察。幼馴染みでもあった男が名を呼び、手錠をかけてこようとするのをカノンは必死で抵抗した。 嫌だと思った。未だ嫌だと…。 未だ、だって…あの暗い部屋で自分の帰りを一人待つヒトがいるのだから。 「離せ、莫迦っ…!」 「離せるか!」 「…俺はっ……俺は、帰らなきゃいけないんだ…!」 *** カノンが捕まったと…仕事中にかかってきた電話で友人がそう教えてくれた。 小さな窓からもれる光を見つめながら椅子に腰掛けているカノンを見て、アイオロスは溜め息をつく。刑事の一人が譲ってくれた椅子に、有り難く座らせてもらえば、カノンの目がこちらにむいた。睨まれるから、アイオロスは苦笑する。 「…お前は相変わらず突拍子もない処にいるな」 「……アンタが来るなんて思わなかったよ。大企業の社長様が、薄汚い犯罪者に会う為だけに仕事を抜け出してくるなんてな」 「どうにか出られる様にしてあげるよ」 「取引か?」 吐き捨てられた言葉に、アイオロスは沈黙する。ただカノンを見つめ返した。さげすんだ眼で見られようともかまいやしない。ずっと、探していた。あれから、ずっと…。 「サガは、今何処にいる?」 後ろで二人の様子を見守っていたラダマンティスが眉間に皺を寄せる。カノンはアイオロスを睨み付けたまま。アイオロスはただ静かにその瞳を見つめ返すだけ。狭い部屋に、窓からこぼれる光。儚い光に、カノンはサガをみた。 「……………………助けて、…くれ」 最初にこぼれたのは小さな声だった。 アイオロスを睨み付ける瞳の色が揺らぐ。苦しげに。 「………アイツを…、アイツを救えるのは……お前だけなんだ……きっと」 「……サガに、何が」 「…癌なんだ。──明日か、明後日か…もしかしたら今日中なのかもしれない………もう、太陽の光さえ届かない。…………失明してしまうんだ」 紡がれた言葉に、アイオロスは眼を見開いた。穏やかさは消えた。思わず立ち上がりかける、その手をカノンは掴んだ。掴んで、叫んだ。 「サガはお前に逢いたがってた」 カノンの手が振り払われる。アイオロスはラダマンティスを押しのけ、車に駆けた。 *** 繋がらない携帯電話に不安と焦りを覚え、サガは壁をつたいながらどうにか外へと出た。外は相変わらず暗い。カノンは霧が濃いからだと云っていた。 肌寒い空気に触れながら、カノンの名を呼んだ。応える声はない。ポストに手をかけ、もう一歩進む。一歩。もう、一歩。世界は薄暗いまま。 「……早く帰ってきてくれ」 震える足で、更に一歩。もう待つのはたくさんだった。 一人でこんな薄暗い世界にいる事がたえられない。 待つのが嫌で、耐えるのが辛くて、だから彼のもとから去ったというのに。 「…カノン、」 もつれた足で、潮騒が聞こえる方へと進む。幼い頃、美しい海が生家から見えたのを覚えている。薄暗い今は、その美しい色が見えなかったが。 「早く、帰ってきてくれないと……彼の顔がもう見られなくなってしまうのに」 そこまで口に出して、サガは首を振った。結局、彼のもとへ帰りたがってしまうのだ自分は。もう逢わないと決めたのに。───でも、もう彼の顔が見られないというのならば、一度くらい見ても良いはずだ。最後に、一目。 それだけで、他にもう思い残す事もないのだから…。だから。 「アイオロス」 ささやきに愛おしさが募る。瞼裏に思い描かれた美しく懐かしい日々に涙がこぼれそうになった時、だった─────。 蒼い瞳が見開かれ、天を仰いだ。 急速に光を失い、全てが闇に沈んでいく様を確かにサガは見た。 >> NEXT(続き) |