─────逢いたいか?
サガと別れてしばらく後に、シオンがそう訊いてきた。
訊いて、でもこちらの答えを聴かないまま嗤って告げられる。

「やめておけ。サガに酷だ。逢ってももうどうにもならない。お前はもうすぐ結婚するのだからな。お前達では駄目だった、それだけだ」

だからもう逢うのはよせ。

鼓膜に未だまとわりつくその声を振り切りながら、アイオロスはアクセルを踏む。カノンと一緒ならば、いる場所は限られてくる。美しい海がある浜辺のあの家だ。
逢って何と云えばいいのか、何も思いつかないままアイオロスは目的地に着いた。逢いたかったはずなのにいざ近くにいると思うと足が動かなくなる。ぼんやりと視線を海にむけた………その時、見つけた。
─────浜辺でうずくまる金糸の美しいヒトを。

「……サガ!」

冬の浜辺でコートも羽織らずスーツ姿のままで、革靴に砂が入り込む事も構わず、ただ一心にサガのもとへとアイオロスは駆けた。徐々に、声が届く。サガの…叫び声が、聞こえた。泣きわめく声。悲痛な…。
傍まで近寄れば、それに気付いたサガが顔をあげた。変わらない綺麗な蒼の瞳に一瞬言葉を失う。涙で顔を汚しながらも、彼は美しかった。

「………カノン!どうして、遅かったんだ……!どうして…!カノンっ!!」

さまよう手がアイオロスの腕をつかむ。掴んで、サガは叫んだ。

「何も見えないんだ!世界がないんだ!何も、ないんだ!何も………見えない…!……もうこれじゃあ、アイオロスの顔が見られないじゃないかっ!」

泣き叫ぶサガを、その震える体をアイオロスは思わず抱きしめた。他にどうしたら良いのか判らなかった。ただ、何も見えないと云われた時、アイオロスの視界も何も見えなくなった。脆く崩れた彼以外、何も見えなくなった。暗い世界。

「どうすればいいんだ…カノン…どうすれば……私は、…………カノン!」

アイオロスの胸を拳でたたきながら叫ぶサガの声を彼はただ聞き止めた。


***


「……………アイオロスに逢わせてくれ」

憔悴しきったサガが、そうアイオロスに告げた。泣き叫び暴れるサガをどうにか室内に入れ、汚れた手足を濡れたタオルで拭ってやっている時だった。丁寧に拭っていたアイオロスの手が止まる。

「…元気でやっているんだと…これで最後だから……ちゃんと自分で伝えたいんだ。眼が見えなくなった事は伝えたくない…。大丈夫、上手くやれる…。お前を待っている間、ずっと練習していたんだ。……大丈夫」

大丈夫だからと、静かな声で繰り返すサガをアイオロスは見つめた。本当はもうボロボロなくせに、そうやって無理して強がるのは何故なのだろうと思う。強がる為に、笑うのだ。美しく微笑むのだ。何度、自分はその笑みに騙されてきたか…。

「……何か喋ってくれ、カノン……大丈夫なんだ、本当に。私には、お前がいるのだから…。だから、カノン……頼む。何か一言でもいい、喋ってくれ」

じゃないと、自分が今此処にちゃんと存在しているのかでさえ判らなくなる。
呟かれた言葉に、立ち上がったアイオロスは躊躇うように頬に触れて…そして静かに抱きしめた。此処にいるのだと。言葉に出来ないけれど、伝われば良いと思った。

「アイオロスに、逢わせてくれないか?」

アイオロスはその言葉に静かに頷いた。


***


揺れるバスの中で寄り添いながら、サガが喋る。途切れなく喋る。喋らなきゃきっと、保てないのだと思う。
「アイオロスには知られたくない」
繰り返しサガは云った。云って、そして、アイオロスの名を何度も紡いだ。元気にしているのだろうか、相変わらず格好良いのだろうか、自分は上手く出来るだろうか。
幸せそうに、アイオロスを思い描く。

「……やっぱり、逢いたくない」

そう告げたのは、バスを降りてからだった。震える指が、横のアイオロスの腕を掴む。きつく。怖くなってきたと、今はもう何も映さない蒼の瞳が云う。
その手を上から包もうと思って、でもアイオロスはためらいながら止めた。

「アイオロス」

呟くその名前だけが、以前と変わらなく愛おしく耳に届く。
しばらくして、それでもサガは進んだ。会いに行くためだと判った。


適当に見つけた店に入り、サガを座らせる。「逢えるのか?」と問うサガの肩をぽんと叩いてやった。そして、離れた場所にアイオロスも座る。座って、眉間に手をあて眼を瞑る。ぐるぐるとさだまらない思考をもてあましながら、アイオロスは緩く首を振った。それでも逢わなければならないのだ。

サガの目の前の席に座る前に、コンコンと指で軽くテーブルを叩いた。俯いていたサガの肩が震える。ゆるゆると唇が言葉を紡いできた。

「………アイオロス、」
「久しぶりだね」

震えた声にならないようにと告げた言葉に、サガがあの頃のように微笑んだ。

「お前が元気そうで、良かった」

…こんな苦しげな表情で?アイオロスは言葉を呑み込む。

「会社の方はどうだ?お前の事だから大丈夫だと思うが」
「……ああ。この前、アイオリアが取引に成功したよ」
「そうか」

伏し目がちに微笑むその顔をアイオロスは見つめた。じっと見つめるアイオロスのその視線にサガが気付く事はない。

「…私の方も上手くやっている。……幸せだ。幸せだよ。だから、心配しないでくれ」

微笑んで告げられた言葉。相変わらずのそれが…。耐えきれなくなって、アイオロスは嗚咽をもらす。ぎゅっと拳を握り締めるが、こらえきれない。サガが眉根を寄せた。

「…………泣いているのか?」
「……俺を見てくれ、サガ」

震える拳を握り締めたまま、告げる。サガはでも微笑みを崩さないし、目線をあげる事もない。こちらを見る事はない。

「お前が泣くなんてらしくない。…私達はこれで良かったんだ。私は今が一番幸せだし、お前もいつかこれが幸せだったのだと思えるようになる。大丈夫だ。だから、笑ってくれ。最後にお前の笑顔を見たい」

アイオロスが呼吸をつめる。それに気付いたサガはふわりと穏やかに笑んだ。

「やっぱり、お前はそうやって笑っている方が良いな」

さようなら、アイオロス。
涙をこぼしながら、アイオロスはその声を聴いた。サガはどこを見て、そういうのだろうか。笑えるはずなどなかったのに。

アイオロスは席を立ち、店の外へと出た。涙があふれて止まらなくて、声を殺しながらその場にうずくまって泣き始めた。
後ろではガラス張りの店内の中、サガも涙をこぼしながら泣いていた。


***


帰り道、サガがしきりにアイオロスに問う。

「上手くやれただろう?ばれないように、眼を見なかったんだ。なぁ、アイオロスはどうだった?変わりなかったか?どんな服をしていた?……最後は、泣いていたのか?」

なぁ、カノン…。
カノンじゃないと云えば、もっと楽だったはずだと、アイオロスは思う。お互いボロボロになりながら、何故未だこうして傍にいるのだろう。

「お前は見たのだろう?どうだったんだ、アイオロスは?何でもいいから、教えくれ」

せめて、その唇から自分の名を紡がないでくれれば良かった。
未だあの頃と変わらない声で顔で、名を呼ばれると気が狂いそうになる。何度も、何度も。ただ寄り添って、傍にいる事ができたあの頃だと錯覚しそうになる。
もうすべて手の届かない遠い昔の出来事なのに。サガは眼を失い、俺は自由を失い。

「………なぁ、アイオロスは」

そんなに嬉しそうに名を呼ばないで欲しい。あの頃のような笑顔で。
俺はカノンじゃなくてアイオロスだったのだと…眼が見えない彼を余計苦しめる言葉しか吐けなくなるから。だから。だから。

俺が「愛している」と囁く前に、どうか。



(050310)
本人が傍にいるのに気付かないまま、しきりにそのヒトの名を呼ぶチェ・ジウにやられました…。