「…教皇には伝えないでおこう。帰るぞ、アイオロス」

子供から目を離せないでいる俺の腕を、サガが引っ張った。聖なる小宇宙をこんなにも確かに宿している子供を「見なかった」事にするサガに俺は戸惑った。今までこういう子供達を見つけては聖域に連れ帰ってきたのは他ならぬサガである。それが何故と想った。
誰を庇っていたのか、庇いたかったのか、この時の俺には判らなかった。

「………いっちゃうの?」

そう小さく呟いたのは子供であった。俺が家を出た時(あまり記憶はないが)弟はいなかった。つまりは俺がいない間に産まれた子供だ。なのに何を寂しがるのだろう、求めるのだろう。

「……君、名前は?」
「アイオリア」

「アイオリア、お前が選べ。俺達とともに聖域に来るのか、それとも家族のもとへ帰るのか」

腕を掴んでいたサガの手が力をなくすように離れていった。
そんな質問の仕方、間違っていると、音にせず唇がそう告げて。


全ては、小宇宙と女神のお導きだ。
教皇が俺達を前にして、そう言葉を紡いだ。この子と出会った事も、この子が惹かれるようにして此処に来た事も。全て。 (なら、どこまで神は未来をお決めになっているんだろう)

広い教皇の間の中央で、ひとりたたずむ小さな子供を、教皇の横から俺は見つめる事しか出来なかった。小さな体はただただ怯え、震えていた。
今までやってきた子供達が妙に大人しかったから余計にそう思えた。
教皇は、黄金の小宇宙を宿している子だと、告げた。この一言により、この子供の一生はこの聖域の中で生きるのだと確定された。


教皇の処から宿舎へ連れて行く間、俺は弟を腕に抱き上げながら進んだ。子供の小さな指が必死になって掴んでくる。改めて想う事は、本当に小さく幼く、頼りない体なのだという事だった。こんな子供がこの世界の明日を背負っていくのだ。

「…兄ちゃんのこと、お母ちゃんがしゃべってたんだ。兄ちゃんは、せかいのへいわをまもるえらばれたにんげんだって。何よりも「ほまれ」あるおこないをするひとがあになのだから、俺もほこりに思えって」
「そうか。…これからはお前自身の誉れになるよ」

両親には、何と伝えれば良いのだろう。俺から伝える事は酷く残酷な行為に思えてならなかった。


***


アイオリアが寝付くまでずっと傍にいてやった。どうやら俺に似て図太い神経らしく、すぐに周囲の子供たちに馴れ、あっさりと眠ってしまったが。

「…何故、此処に来る」
「サガの顔が見たくなって」

灯りの下で本を読んでいたらしいサガが胡散臭いものをみたとばかりに顔をしかめる。綺麗な顔がそうして歪むところが可笑しくて、俺は微笑み返した。一晩くらい傍にいてやれば良いのに、とサガは呟きながら本を閉じた。

「俺はさ、君の顔を見る度に冷静になれるんだ。どんなに悩んでいても、君の、その頑なな姿勢にはっとする。君の、その小宇宙がある限り、俺は迷わず進んでいけるきがするんだ」
「……お前は私がいなくとも、1人で進んでいける男だよ。そんな奴だ」

サガがさしのべてくれた白い指先に、指を絡める。そのまま引き寄せて、掌を心臓に押し当てるように包み込んでしまう。俯いた前髪の先が、彼の腕にかかった。弟とは違い頼りない部分など何処にもないその腕も、彼のぬくもりも、強さも優しさも、全て女神の為にあった。俺の全ても。
(後悔、しているわけじゃないんだ。そうではない。世界を守る為に拳を振るう事を恐れはしない。ただ、)

「───サガの、」
「うん、」
「サガの祈りの言葉をきいた時、俺は思ったんだ。ああ、君は君の守りたい未来が具体的にあって、でもその未来にきっと君自身を含める事は考えていないんだろうなって。あの黄金の子供たちだって、そんなふうに未来を考えている。平和の為に神と戦うには、犠牲が必ず伴う。それでも、君も、あの子達も己の信じるものの為に迷う事なく進むのだろう」

いつのまにか彼に寄りかかっていた。縋るように身を寄せて、彼の肩に押しつけた唇でどうにもできずにその言葉を紡いだ。

「君は、君がいない世界の為にいつも祈っているんだ」

漠然とした気持ちのまま呟かれたそれに、サガの手が応えた。開いた片手が、俺の背を優しく撫でた。笑う気配。 此処まで騒いでおきながら、結局俺の云いたい事はそうじゃないのだと気付いた。何も生まない、不毛な時間だった。それでも、妙に優しいサガが言葉を添えてくれた。

「弟を連れて、逃げないのか?」

そう考えた事は、なかった。
そして、あまりにもそれは禁忌に近い言葉であった。

そんな言葉をあっさりと紡いでしまった人の顔を、アイオロスは下から覗き込む。そのまま両手で彼の頬を包み込んでしまう。間近で目があう。いつもの涼しい眼差しに、俺はささやく。
この一日のうちに俺は様々な感情と出逢った。恐怖、焦り、喪失感、戸惑い、今まで漠然としていたモノがはっきりとした形となって実感できた。未来。

そして、俺は俺の選択に後悔はしていないし、彼は彼の祈りを途絶えさせる事はないのだとも、知っていた。

「………泣かないで、サガ」

泣いていないというサガのその唇を塞いで、そのままさらった。拒まれる事はなかった。お互い何かに怯えていたが、それを口に出す事はしなかった。
行為の果てに、彼の心音をきく。


***


その晩、サガと同じ夢をみる事はなかった。
俺は、幾度も幾度も己の心臓に矢を突き刺す男の夢をみた。突くたびに全身は激しい痛みに苛まれるが、しかし矢が抜けるとすぐに体は元通りに戻った。そしてまた突き、激痛を招く。その永遠の繰り返し。
その男は、火を盗んだ人々の英雄には程遠い、惨めな顔をしていた。


彼が、サガが、云った。

「お前と、ひとつになってしまいたい」

それから、ひどく、懺悔するかのように声を殺して、泣いた。俺は、ひとつになりたいと告げた唇を塞ぐ事しかできなかった。 なかないで。


***


「デスマスク、ここ、間違ってる」
「…別に報告書なんていらねーだろ」

指摘すると、少年は俺から羽根ペンを奪い、面倒くさそうに書類へ目をやった。それを一瞥しながら、俺は他の書類に手をのばす。
最近は体を動かす時間と同じくらい、宮の奥で文章を目にしているのが多くなってきた。統制、管理。情報。後先を考えず突っ走るのではなく、冷静に的確な判断を素速くこなせるのが大事なのだとよく教皇から云われている。

「しっかり書き直せよ。組織に属しているんだから、報告は義務だ」
「ちゃんとデスクワークができるんだな、あんたも」
「幼い頃からみっちり、サガに仕込まれましたから」

書類の一枚に、見慣れた筆跡をみつけた。几帳面で見やすい字。優しさと、厳しさ。サガの書いた書類だ。小さな文字の癖をみつけ、それを無意識になぞっていると、上から笑われた。

「仲が悪いのか良いのか、ほんと、謎だよな」
「仲が悪く、みえるのか?」

自分では、意外だと感じた。

「性質が全く違う。なのに、いつも一緒にいる」

そんなものかと、俺は思った。ふと、窓の外に視線をやると、すでに空は朱色に染まっていた。太陽が空の彼方に落ちていく。かの人の瞳と同じ色が失われていく。 (今、彼は何処にいるのか)

「…今日の夕食、リアの為にサガがつくってくれるらしいんだけど、お前も来るか?」
「───俺がサガの手をとって、聖域に初めて来た時、」

唐突な、言葉であった。視線がぴたりと重なり合う。

「『何処かに帰りたくなるから、夕陽は見ない方がいい』と夕陽を見ながらいってた。随分と、感傷的な言葉だったが」

ほらな、あんた達は考え方が違うんだよと、言外にそう云いたかったのか。しかし、そう判断させる前に、デスマスクは書類を持つ方の手をひらひらとふりながら、退室してしまった。

「おい、夕食どうするんだー?」

彼が帰りたい場所とは何処だろうか。それを、俺には決して教えない事を、それだけは知っていた。



同じ頃、サガと教皇が見守る中、アイオリアがパンドラの箱を開いた。散らばるのは、黄金の光のかけら。
アイオリアを選んだのは、獅子座の聖衣であった。



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※ロストキャンバスのネタバレが若干あります。