夕陽が怖いと、彼がその言葉を呟いたのはいつの時だったろう。
他愛ない何かの会話の途中でふっと落ちていった言葉だった。消えていくだろう事を彼は望んでいたはずだ。なのに、俺は考えもせず、その言葉を簡単に拾ってしまった。何故、と訊いた。
彼は、微笑んだだけだった。
赤い夕陽に照らされたその笑顔は今にも霞んで消えていきそうだった。ああ、だってほら、空の端から夜の闇が、君を、聖域を包んでいく。

俺は彼の為に、精一杯の青空のかけらを掻き集めて(彼がその心臓から落としていったものも全部拾い上げて)、そうして、その唇にそそいで戻してあげたかった。


***


親元から離されて、ひとり聖域にやって来た時、教皇が「お前と同じ宿命を負う特別な子だ」と紹介したのがサガであった。才気と修練によってなれる青銅や白銀とは異なり、黄金の聖衣は「魂」を選ぶ。潜在的何かであるらしいが、くわしくは知らない。「女神の魂がお前を選んだ」という言葉のみで此処まで連れてこられたからだ。そして、俺はそれを受け入れた。親の仕事の見様見真似で種植えができるようになった歳の頃だった。

そんな俺とは違い、その頃サガはすでに難しい字の並んだ本をすらすら読んでいた。俺は珍しがって、サガの横で本の内容を何度もしつこく訊ねていた。
朝から晩まで、食事も風呂も修行もいつも一緒だった。

「お前の劣る部分はサガに補ってもらえ。サガの劣る部分はお前が補え。 そうして、2人で凹凸を埋めればいい」
教皇の口癖だった。

「俺がサガに勝る部分なんて大食いって点だけじゃないか?」
「…そんな事ないよ」

嫌味でも何でもなく素直にそう思った事を告げれば、サガが一瞬だけ真顔になって、でもすぐにいつものように笑った。サガはいつも優しかった。
「私は、お前になりたかった」

そんな言葉をきいたのは後にも先にもこの一度きりだけだった。 結局、俺は君の為に何ができるのだろう? 時折それを考えるようになった。

その頃には、対等に闘えるのがサガだけになって折、お互いの技を高め競いあえるのがとても楽しくなっていた。難しい本等を読まなければいけなくなると同時に、次の黄金の子供達が聖域にやってきた。目まぐるしく訪れる変化の中で変わらないのは、朝夕の鍛練と、サガが眠る前に行う祈りの時間だ。

「…サガは、いつも何を祈っているの?」

白いベッドの中から、窓辺で祈りを捧げる金糸の髪にむかって静かにそう問う。月明かりに透けて綺麗な髪がさらさら揺れていた。

「………いつも同じ事を。守りたい者があって、その子が健やかであるようにと、世界がその子に優しくあるように。いつも、そう、アテナに祈っている」

俺は白いベッドの中から抜け出す。ひんやりとした夜の空気が一瞬にして俺を包んだ。そして、きっとサガもその中にいる。 出逢ってからずっと繰り返されてきたその祈りに、具体的な対象がいる事を初めて知った。

「そんなに大切な人がいるなら、会いに行けばいい。そうした方が、此処から祈るよりきっとずっと相手は嬉しいはずだ。俺が教皇にばれないように上手くやるから」

随分勝手な意見だと自分でも判っていたが、俺はいつだって考えるより先に口にしてしまう性分だった。
後ろから、サガの両目を掌で覆ってしまう。意味なんてなかった。泣かせてしまったらどうしようかと思ったが、そうでなかった。それならば、少しでもぬくもりが伝われば良かった。

「…ありがとう、」

こんなに距離は近いのに、それでも何故か遠いと思った。(ああ、顔が見えないからだ)
あまりにも静かすぎて、思わず彼の心臓に耳を押し当ててしまいたくなった。


***


出逢ったばかりの頃、夢うつつの間に不可思議な光景をみた。月明かりの綺麗な夜。ふと気付けば横にいるはずのサガがいなかった。眠い目をこすりながら辺りを見回すと、窓の向こう、夜空の下で、教皇シオンが綺麗な金糸の髪の子供を抱いて(まるであやすように)立っていた。どうして教皇がこんな処に、しかもサガを抱いているのか、判らなくて首を傾げているうちにまた眠ってしまっていた。
そして、今。
横でサガが苦しがっていた。先程まで静かに眠っていたはずなのに。痛みに呻いているようではなく、悪夢に魘されているようであった。何が、この強く聡明な彼を苦しめているのか。

「サガ、起きて。サガ……サガ」

それでも彼は現実を拒むかのように手を振り払い、悪夢を飲み込んでいってしまった。サガが落ち着くまで、俺はただサガの手を握ってやる事しかできなくなる。

かのん、と。 サガの唇はそう紡いだ。

翌朝、目覚めた瞬間にサガに殴られた。どうやら結局、サガを腕の中で抱きしめたまま寝たらしい。顔を真っ赤にさせるサガが面白くて、経緯は説明しなかった。時折、そんな夜と朝を繰り返すようになった。



知り合いの衛兵から、サガらしき人物が教皇の地下牢にいれられたという話をきいた。サガは遠征中で、不在であった。
黄金の幼い子供達3人を自主練という名で放置し、ひとまず教皇のもとへ確認しにいこうとすれば、子供の1人が俺の服の裾を引っ張った。そして、大声で泣き始める。 思いも寄らぬ展開に俺は「えぇぇぇ?」と声をあげた。

泣き声は連鎖反応を引き起こす。そうなる前に俺は他の2人を女官にひとまず預けて、泣きっぱなしの子供を抱えながら落ち着くまで聖域をランニングしようと思った(要は、完全に焦っていた)。走ると風がより一層心地の良くなるのを知っていた。それが少しでも子供を慰めてくれればいい。
走り回った挙げ句、丘の上で金糸の人を見つけた。光に透ける砂金の髪は、青空の下で優しくなびいている。求めるように、その美しい名を呼んだ。

「…家族を思いだして泣いてしまったんだろう」
「脈絡もなく?」
「不意に思い出すんだ。もう、逢えないと」

俺の汗ばんだ腕からサガの腕の中に子供は移される。サガが優しく子供を自分の胸に抱き寄せた。

「………泣きやんだ」
「泣き疲れて寝たんだろう。心音をきくと落ち着くというし、」

私も幼い頃、こうしてシオン様に抱いてもらった。
そっと呟かれた言葉に、俺は胸中でああと納得する。俺が無言でいると、サガが遠征が早く終わった経緯を話してくれた。サガは遠征前よりずっと疲れて沈んだ表情をしていたので、俺はそればかりが気になった。

「…アイオロスは、」
「…ん?」
「もう一度家族と暮らしたいとは思わないのか?」

考えた事もなかった。


いつのまにか、空が青から鮮やかな朱色へと変わっていく。
夕焼けを、2人でぼんやりと眺めた。


***


その日の夜だった。
サガが悪夢をみてうなされていないか、深夜に起きるのが癖になっていた俺は、いつものように夢とうつつの狭間から抜け出した瞬間、どきりとする。心臓がやけに大きく跳ねた。真っ白なベッドがあった(まるで最初から誰もいなかったかのように)。隣のベッドからサガが消えていたのだった。月明かりだけがやけに青白く、部屋を染める。

俺は慌てて外に出た。小宇宙の名残を辿っていけば、聖域の一番はずれで座り込んでいる後ろ姿をすぐにみつける事ができた。
俺がいる事に気付いているはずなのに、振り向きもせず、微動だにしない背中は俺を完全に拒絶していた。
俺は、夜を包む風がサガに少しでも優しくあるようにと、そう祈る事しかできなかった。一晩中、俺達はそうしていた。

それ以上近づく事も遠ざかる事もできず。 (俺達は。)


空が朝焼けの紫色に染まる頃、それでもそのままであった俺達の沈黙を破ったのは、近づいてくる子供の足音だった。規則的ではない呼吸音から、訓練されていないただの子供、つまりは聖域の外の者だと判る。聖域と外部の間の道だったから、そこに違和感を覚えなかった。しかし、先程まで動かなかったはずのサガが立ち上がる、俺も視線を子供の方に向けていた。心臓がとくとくと早鐘を打つ。お互いの小宇宙が震え合うのが判った。「あの子の小宇宙に、」…共感している。 かすれた声は最後まで音にできなかった。
渦中の子供が顔をあげる。水くみの途中なのか、小さな体には重いであろう瓶がちゃぷりと中で水音をたてた。
朝陽が子供を照らす中、子供は「兄ちゃん?」と言葉を紡いだ。

サガではなく、俺なのだと、小宇宙がそう俺に囁くように震えた。



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