誰も触れられずに近寄れずにいた彼に、傘を差しだしたのは、射手座であった。

「預かっておいて」

濡れる事にも構わず、灰色の雨を全身に浴びて一人たたずんでいた蒼天の瞳がようやく「海」から離れ、穏やかに微笑んだ射手座の青年を見やる。くすんだ世界の中、その青年の周囲はほのかな朱色の光に包まれていた。あたたかな小宇宙は、傘を受け取った双子座の青年さえも包み込んでしまう。太陽の光さえ届かない、今は重く暗い地上だというのに(自ら光っているかの如く)輝かしい黄金の聖衣に身を包んだ射手座を見て、双子座が口元に小さく笑みをつくる。

「……ついに、───が出る事になったのか」
「これ以上の犠牲は必要ないだろう?黄金聖闘士も何人かその最後の将に苦戦しているというし」

濡れてはりついた双子座の長い髪を指で丁寧に梳きながら射手座が紡ぐ言葉を、蒼天の瞳がただじっと見つめる。何か言いたげな顔に気づいて、射手座が名を呼ぶが、双子座はふるふると首を横にふった。

「射手座の聖闘士が海に行くのなら、勝利は間違いないだろう」

双子座がそっと強く握り締めた傘の下で、射手座の青年がその額に唇をよせた。
雨は、もうすぐ止むのだろう。(なのに、どうして、互いが互いに感じるこの不安な気持ちは消え去らないのだろう)(触れれば触れる程、触れ合った場所から失っていくような、)






それが、いつの記憶だったかは判らない。 繰り返し視る、夢。
数年先に訪れるだろう今世の女神かもしれないし、あるいは前世、来世か…、もしかしたら遙か昔、神話の時代の女神であったかもしれない。どちらにしろ、高貴な紫の色を宿す静かな少女の双眸が、真っ直ぐとこちらを見つめて、告げた。その瞳の色だけを、鮮明に覚えている。

「 幾度生まれ変わっても、その魂に誓いましょう。来世も、『英雄』として、 」


握り締めた指先から途端にぼろぼろ大切な何かが喪っていくような感覚。何かから逃れるように気づけば、駆けだしていた。下へ、下へ、下へ。転がり落ちるようにして何処をどう走ったのか。聖域のはずれまできた丘で、蒼天の瞳と出逢わなければ一体どうなっていたのだろう。少年が少しだけ眼をみはって、名を呼んだ。

「────?」

名前を呼ばれただけで、目眩がした。いつもそうやって、何処かの何かへ自分が堕ちていく寸前で、彼のその空色の瞳に見つかっているようなきがする。そうやって、(離れがたくなっていく)

荒い呼吸も整わないまま、双子座の腕を無理矢理ひっぱり、文句を云われる前に思い切り強く抱きしめた。双子座の少年を取り巻く小宇宙に触れるだけで、不安がぽろぽろと剥がれ落ちていくようなきがしながら。 その間に、少年の手の中から一羽の鳥が空高く飛んでいく。

「…教皇の側近のじじ様が飼っていた小鳥。何だかこいつはこのまま狭い鳥籠の中で一生を過ごすしかないのかと思ったら…………可哀想になって。こっそり、持ってきてしまったんだ」
「……外の世界は、自由だろうか」
「さあ」

大空にひとりぼっちのが、可哀想だったのかもしれない。




(もし、此処で死んでしまえば、きっと自分の魂は星になって君を見守るだろう。いつも、いつだって、ずっとずっと、傍に。 君の傍で、息づきたい。)





枯れた花の束を手にして、双子座の青年は立っていた。鮮やかな色彩を喪ったそれを大事そうに大事そうに抱きながら、青銀の髪は海風になびかせて。月の明かりがなく、澄み切った星のまたたきだけが、世界を彩っていた。

「きっと、一番最初に───が私を見つけてくれるのだろうと思っていた」

そう告げ、振り返った双子座の顔に浮かぶその満足そうな笑みに、一瞬憎しみが膨らむ反面、どうしようもなく愛おしいとも感じた。愛おしさを消す術が射手座には見つからない。

「…きっと、一番最初に俺が見つけて欲しいのだろうと思ったから」

だから、いつもみたいに微笑んで応える事しかできない。双子座が笑みを深め、手をのばしてくる。
頬に触れてきた双子座の指先は、とても冷えていた。無意識のうちに双子座の手の上に重なった射手座の手はそのまま掴んで、双子座の体ごとひきよせてしまう。あっさりと射手座の青年の腕の中に包まれた冷たい体から、潰された花の残骸がぽろぽろと崩れて消えていった。
(ああ、これはきっと、夢の続きだ)

次の瞬間、射手座の青年にむかって、双子座の青年が拳を繰り出したとしても、蒼天を秘める双眸の色は変わらなかった。ただ、握り締められた拳の中の花が、今度こそ跡形もなく失われた。射手座の頬から、つぅ…と血が一筋ながれていく。射手座は驚く事もなく、静かに双子座を見つめたまま

「聖域の英雄は、いつ、裏切り者の双子座を始末するんだ?」

待ちくたびれたぞ、
言葉は、射手座の唇が強引に奪い取った。全てを封じるような奪うような、それでいてただ求めた。そこから、何もかも曖昧に、無粋な境界などなくして、ひとつに混じり合えれば良かった。そうであれたら良かったのに、といつもどちらともなく思っている。何もかもがもどかしかった。

「……いつか、きっと、こうなるんだろうと思っては、いた」

双子座の呟きは、夜の海のざわめきが掻き消していく。なのに、すぐ傍で、耳もとで囁かれた言葉は確かに、射手座にも届いていた。砂浜に背を預けた双子座は、応えない射手座の肩越しに見える空に星の射手座を見つける。いつだって、そうやって、傍に。


ポセイドンの完全な覚醒を阻もうと攻め込んだ数名の黄金聖闘士を倒したのは、海龍だった。彼の小宇宙は、荒ぶる海のように全てを呑み込み薙ぎ払い、拒絶した。しかし、射手座が海に訪れた事により、海の神の復活は免れる事となる。誰にも太刀打ちできなかった海龍を、他でもない射手座が破ったからだ。そうして、射手座は知る事になる。ヘッドパーツの下から現れた海龍の顔は、長年傍にあった双子座の顔と瓜二つだと。
思わず口からこぼれた双子座の名を聞き止めた海龍が、その瞬間燃え尽きたと思った小宇宙を再び輝かせた。怒りと憎しみに空間が震えた時、第三者がその場に入り込んで、動けない海龍の体をさらっていく。二対の蒼天の瞳が、確かに目の前に現れてでもすぐに消える。奇跡のような、一瞬。射手座は、誰もいなくなった空間で、もう一度その名を呟いた。


「海龍は、私の半身だ。遠い昔に失った双子の片割れ。教皇も、それを知っていた。知っていた上で試された。だから、私は期待通りに、聖域を裏切った。大勢の仲間の命を奪った敵将の、その命を、救った…。 射手座の聖闘士はどこまで教皇に報告した?」

答えは、矢張り返らない。云われずとも、知っている。きっと、彼は何も誰にも告げていない。それでも、きっと。(それでも、きっと、聖域の英雄として射手座の聖闘士は、逆賊の芽を摘まなければならない)(…判っているくせに、私から何かを云うまできっと何もしなかったのだろう)

「……────は、狡い」
「…………………君の方が、よっぽど…」

珍しく言葉を詰まらせた射手座に、双子座は楽しげに喉をならして笑う。

「私を失うのは辛いだろう、────?」

双子座がそっと、射手座の背に手をまわす。むき出しになった肌の上を指がつたい、肩甲骨に触れた。翼のはえる場所だ。昔からずっと、あの翼が羨ましかった。どこへでも、逃げられそうな翼。

「…まだ、教皇から何も云われてはいない」
「いずれ、殺さなくてはならなくなる。あれは、けっしてあきらめやしないよ。『私達』が、自由になれる日まで。そして、それを、聖域の英雄は絶対見逃せない」
「ここから、君は、出たかったのか」
「………いつも、逃げだそうとしていたじゃないか。その度に、───に見つかっていたけれど」

聖域のはずれで一人たたずむ少年をふと思いだした。射手座が口を開こうとしたがそれは痛みにかわる。肩甲骨の上を思い切り爪でひっかいた双子座はにっこり微笑んだ。
もっと、幼い頃に、そうできてればこんな事にはならなかったのに。
声にはださず唇だけ動かしてそう告げる。悲しそうな顔をする射手座の頬を、そっと撫でた。

「射手座の聖闘士だって、ずっと解放されたがってたくせに。繰り返し繰り返し「英雄」として生きて、死んでいく運命。名誉ある死を期待する声。死にたくないなんて云っておきながら、本当はもう全部終わりにしてしまいたかったんだろう?」

云いきった双子座の髪を、射手座の青年が思いきり引っ張った。匂い立つ香りにくらくらした。感覚はすでに冴え渡り、鋭すぎて逆に遠くに感じた。それでも、触れ合う程近くにある吐息だけが、互いに生きている事を強く伝える。これ以上とない近い距離で、互いに逸らそうとしない真っ直ぐな瞳同士が出逢う。
いつだって傍にあって見つめてきた蒼天の瞳に、射手座はふっと甘く囁いた。

「だから、君が、殺してくれるんだろう?」

生かしておけば、「聖域の英雄」がまた、「海龍」を殺しにいくから。だから。

「ずっと、俺こそ、待ってた」

俺の願いをかなえてくれるものを。






ハーデス復活の凶兆を感じ取り、何年かぶりに聖域へ黄金聖闘士12人が集められた。教皇の間の重く冷たい扉をゆっくりと押し開ける。中にはすでに自分と、牡羊座を覗く全員が並んで待っていた。何気なく、見やった先。未だ来ない一名空いた空間の横に、たたずむヒトを見つけた。俯き加減に、かたく眼を瞑る青銀のヒト。誰一人寄せ付けぬような…。
隣の水瓶座が俺の顔をみて、少しだけ不思議そうな顔をした。

「なにか可笑しい事でも?」

どんな表情をしているのか、自分でももう何も判らなかった。



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