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それは、遠い遠い昔。まだ、天と地が近かった頃の話。地上に平和をもたらす為、ゼウスの血をひく純潔の女神が、初めて地上に舞い降りた時代の話。 「ああ、もう!やっぱりそんなところにいたのね、ずるいわ」 唐突に天からそんな声が降ってきて、何だろうと顔をあげれば二階の窓から身を乗り出している一人の少女がいた。純白の美しいドレスは彼女にとてもよく似合っているというのに、その少女の顔は不満そのもの。少女の長く美しい髪が、星空の中できらきら輝いているように見えた。 「主人である私がこんなくだらない宴にでている間、貴方は抜け駆けして一人で悠々と星見をしていたというわけね。そうでしょう?」 「…では、貴方も抜け出してしまいますか、アテナ」 まるで普通の少女かのように口を尖らせて怒る彼女に思わず笑いながら、彼はその逞しい腕をのばして、彼女に手をさしのべた。耳に心地よく響く、とても甘く甘く響く、彼のその誘惑の声に、彼女は満足して微笑み返した。 散りばめられた銀の星空の中、ふわりと舞ったのはその彼女の白く柔らかなドレスと、長い髪。まるで羽根を抱くかのように軽々とその両腕に少女を受け止めた青年は、たえきれずくすくすと笑い出した。 本当に突拍子もない女神であった。 だって、彼女はこんなふうに天界から地上へあの日も降りてきたのだから(俺を連れて)。腕の中の大切な存在を優しく抱きしめながら、思う。人間のように本当に柔らかくて、あたたかくて、泣きたくなった。 これが、人間の命というもの。あの日、彼女が捨てて、得たもの。 「………一人で星をみて、何を考えていたのかしら」 「アテナのことを」 「本当に貴方は嘘つきね。憎らしいぐらい」 彼の腕の中からようやく放れた少女は、それでも彼の首に腕をまわし、その至近距離で笑った。その笑い方は少女のそれではなく、女神の笑み。全てを知る神の、笑み。 それを、だから、男は真っ直ぐと見つめ返す。 「戦の勝利を祝うための宴だなんて馬鹿らしいわ。あの戦によって、どれ程の人間が犠牲になったのかしら…私の守ろうとした人たち。これだって本当に勝利といえたものかしら。……貴方は、きっと今、この地に来た事を後悔している。私が、貴方を連れてきた事を、悔いているわ」 「───悔いてなどいませんよ、我が女神」 「貴方はそうやってさらりとその爽やかな笑で誤魔化そうとするけれど、海の果てで生まれた風の神、じゃあどうしてそんな悲しそうな眼をしているの?」 「…………」 先の大戦で、多くの被害がでた。そこには、一人の少年の死も含まれていた。まだ10にも満たない幼い人間の子供。地上に降り立ち、翼を手折った青年が、拾った孤児だった。兄が欲しいとその子が云ったので、青年は少年を弟として育てた。その子供が星の守護を受け、女神の闘士となったのは偶然でしかなかった。どこにも、神の意志など介在していなかった。ただ偶然が重なっていき、やがて子供は大人になる前に死んだ。それだけだった。 そして、青年は少年の死に涙をこぼさなかった。神に今まで涙など必要なかったからだ。 それだけだった。 「………私が悔いているとすれば、私が神であった事と、風であった為に未だ何かを愛おしむ、悲しむといった単純な感情すら私のこの胸には何もなかった事です…、虚空の私を悔いていたのです。私のこの身は、未だ神の時の名残で…風が通り抜けていくのです、風の通り道である私は……やはり何の意味ももたない虚空にしかすぎないのです。 そしてそれは、今後一生の傷になります。生まれ変わってもなお、魂に刻み込まれます。私の魂は、きっとこれからもずっと…そう生きていく事しか出来なくなる…私が自身にそう強いてしまった……私はずっと虚空のままでしょう、全てを受け入れて、でも受け入れられたとしてもすぐにこの腕の中から通り過ぎてしまう、喪ってしまう、そういう運命をたどるのです。私が空虚だから。風を受け入れた瞬間から、風になるのです……私は未だに、あの子供におくる涙すら流せない」 紫の瞳がじっと、この「欠けてしまった」青年を見つめていた。じっと、ただの少女のように。 そして、やがてゆっくりと今度は少女から青年を抱きしめた。包み込むように、これ以上通り抜けていかないように抱きしめた。 抱きしめてから、もう一度顔をあげ、翡翠の両目にそれぞれ口づけを贈った。 「…泣いているわ、貴方のその虚空の胸は、確かに」 そう云って、もう一度強く抱きしめた。やわらかなそのぬくもりに、あたたかなそれに、矢張り懐かしくなって泣きそうだった(涙なんかきっと判らないままだろうけれど)。 「私の大切な大切な、『射手座』」 彼女が耳元でそう静かにささやいた。風の神としての全てを捨てて、星の導のもと彼女の手に誘われた時その名を新たにいただいた。風の神として、全てを受け入れそして喪う、そんな存在ではなく、つかみたいモノをつかめるように自分もなれるのかと地上へ降りた。なれるのかと、地上へ。 「私、一つだけ知っているの。予知の力なんて、神としてのそんな鬱陶しいもの全て捨ててきてしまったけれど、それだけを覚えているの。貴方に教えてあげようと思って、ずっとずっと秘めていたの。ねぇ、私、知っているのよ」 貴方はね、いつか、地上に降りてきて本当に良かったと、…そう思える未来が必ず来るのよ。 (いつか、この地で、すばらしい出逢いをはたすのよ) だから、どうか、それまでには…──── (070119) |