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気づけば、涙がこぼれていた。 闇夜にとけてきえていく雫が月明かりにきらきら煌めいて、腕の中にいた赤子の目をひいた。言葉ともつかない声をあげて、赤子が手をのばす。逃げていった雫をつかもうと。 子供がつかもうとする前に、頬からまたひとつこぼれて消えた。 (脚がいたいおもいつかれたもう、嫌だ。 走れない。もう、走りたくない。どうして。何故。) 涙が、こぼれて、とまらない。 ああ、君がいたよ。あそこにいたよ。 手をのばして掴まえてしまいたかった。君が一歩後ずさるから、届かなかったけど…。 つかめずに宙をさまよった指先が、とても冷たくて。 涙が、とまらないんだ。 * 何もかもに絶望した後出逢ったのは、監視者でもあり天秤座でもあった「傍観者」。 吹き飛ばされた暗い谷底で、それでも腕の中の赤ん坊だけを大切に大切に抱きしめて、それだけを手にしながら気をうしなっている自分を容赦なく起こした男の顔に見覚えはなかったというのに、どことなく懐かしい、と感じた。 どこかで知っている。きっと、魂のどこかで感じてる、奇妙な再会への歓喜。でもそれは自分のそれではなく、もっと空の彼方にある意志が感じているそれで…。神世の縁で。 どこまでも自分の意志の届かないところで何かが起こって流れていく今のこの現状を突きつけられたきがして笑うにも笑えなかった。 唇がかわいて、痛い。傷口が今更痛みだす。痛い。痛いんだ。 「おまえが、射手座だな」 違う、といいたかった。 それは、空にまたたく星の名だ。たかが星屑に人々が願いを希望をこめ、尊んだ証として呼ぶ名だ。けっして俺の名前ではない。 東洋系の顔立ちをした男はわらった。 「射手座、だろう?」 「………」 「他の誰でもない、その赤ん坊を抱えてきたのは他の誰でもない。お前だろう。未来の女神を守ったのだ、自らの命にかえても。立派だ。射手座よ…おまえの頭上にある星がさだめた運命だ、これが」 言葉とは裏腹に嘲笑うように唇をゆがめて告げる黒髪の男の声に、握り締めた指が震えた。 「運命?これが?こんな…」 喉の奥で言葉がつまる。痛い、痛くて、苦しくて、今にも死にたい。 裏切られた!裏切られた!裏切られた! 裏切られたのだ、自分は間違いなく。全てに。 裏切られたのだ。信じていた世界に。信じようと足掻いた世界に。己の全身全霊かけて守ろうと思った世界があった、その代償にかけがえのない大切なものがあった。世界を守るということは、つまり、自分にとってはそういう事だったのだ。それが何だ。世界は、自分達に何をした。これは、一体何なんだ。どうしてこういう事になったのか、誰か今すぐ教えて欲しい。これは、一体、何故なんだ。どうして、自分の手は、彼の血で染まっているんだ。 この手は、その為に存在したのか。 唯一人、彼に対抗できた手。 そんなことのために、 「女神はすでにこの日を予知しておられた。前聖戦のおり、最期の瞬間、来世のこの日を夢に視た。双子の災いは解き放たれ、聖域は闇に堕ちる。判るか?だから、射手座に黄金の弓を与えた」 闇を払う星の矢。 「…愚かだ」 絞り出された己のこの声にあらん限りの憎しみの色が込められればいい。 だが、音にだしたそれは掠れ、あまりにも情けない。 最初から知っていたのなら、なら、何故、その二つが交わる事を阻まなかったのか。止めていれば。最初から、交わらせる事なくこの日を迎えれば。ただ。…簡単じゃないか、どうして何故、互いに普通の候補生として出会わせた。 …何もしらずにただ、知らないくせに気づきもしなくせに、指はその髪に触れようとしていた。 金糸だった。綺麗な、朝焼けをうけた金糸の美しさがただ清冽で触れたくて触れられなくて、そんな事すらできずにただ世界を守る誓いだけをたてさせられて。それで。それで、 「走れ、射手座。走るしかない。どこまでもどこまでも。戻りたければ好きにすればいい。戻る場所があるのなら。その、「赤子」を双子のかわりに殺してもかまわない。俺は、ただ約束の日まで「傍観」する事を命じられただけだ。 今更何の気休めにもならないが」 時はもう駆け出しはじめてしまったのだから。とまらない。 とまってしまえば、息絶えてしまう。他でもない、彼が。 ああ。 * 走ってる。まだ、走っているよ。脚はとまらないんだ。とまって休む場所をもう知らないんだ。 星がきれいだった。またたく星空のその静けさが今だけは何故か落ち着けた。それだけが支えだった。君とみていた星空だった。想い出はそこらへんに転がっている。だって、自分達は此処で出会って此処で育って、此処で生きてきた。運命の下で。 涙がとまらない。 あのとき、手をのばしてもその俺の手から逃げた君は、なのに、とてもさびしそうなくるしそうなかなしそうな顔をしてこちらをみていた。 何故と、きかれた。いつでも君の味方だよと星空をみつめながら、照れながらそう云ったきがする。 何故だろうね、今はそう答えたかった。時間がとまらないんだ、流れが、俺の手じゃどうにもできなかったんだ、流されて走らされて堕ちていく。 風がふきやまないんだ。絶望しか見えないんだ。 小宇宙で吹き飛ばされる瞬間、掴めなかった君の指がかすかに震えていた。これから君がどう風に流されていくのか、それすら見守れない。 あの指がもし、もし、俺にのばされていたらどうなっていたんだろう。 ああ、でも、俺もきっととらなかったと思うよ。今になって、思うけど。 きっと、前の女神はそれすら知っていったのだ。 だから。 涙がとまらない。風にさらわれて涙が消えて。それでも、まだ、あふれて。想いのように。涙がとまらない。何故こぼれるのか、とまらないのか。それすらも失いそうになりながら、ただ、涙をこぼす目だけが射手座じゃない他ならぬ自分自身なのだと想った。 これだけが、俺だ。今の俺だ。 運命ではない、俺のものだった。 星空にすら押しつぶされそうになりながら、そんな世界で走った。ただ。 星屑 (060213) |