ルーブル美術館の至宝、ミロのビーナス。
深く聡明な表情と、女性らしくふくよかな輪郭を持つ裸体は他の類を見ない程美しい。両腕がない不完全だからこその美をもって、全世界の人々の目に触れた。誰がつくったのかでさえ定かではないその至高の像は、今日もこの美術館内に一人佇む。


今、その像の目の前に一人の男が立っていた。
美術館によくいるようなきっちりとした服装ではない、だらしなく着た服は泥だらけで、すり切れてもいる。しかも、裸足だ。誰が此処へ入れたのか。誰もが振り向きながらも見なかったものとして通り過ぎてゆく。何人も何人も、彼を見ては通り過ぎていった。時間は経った。それでも、男は何人も通り過ぎてゆく中ずっと其処からその像を見つめていた。其処だけがまるで時間から取り残されたかのように、ずっと同じ風景だった。

飽きる事なく見つめ続ける男の横に、ふと一人の少女が同じように立ち止まってビーナスを見つめ始めた。男とは対照的に汚れ一つない真白のワンピース。目深に被った白い帽子のせいで、ほんのり桜色をした唇しか見えない。唇には薄く笑みがたたえられている。背筋良く真っ直ぐとたつ姿に気品らしきものがある処からどこかの令嬢には間違いなかった。でも矢張り男はぴくりとも反応をしめさない。
黙ったまま、二人して見つめるビーナス像もまた沈黙して二人の前に在った。

しばらくして、少女が先にふ、と笑った。
まいったわ、と小さく呟く。

「じっとしているの、あまり得意じゃないみたいだわ、私」

男が何も応えぬままでも少女は言葉を続けた。二人の視線の先は変わらない。

「貴方みたいにずっと、情熱的に見つめてはいられないわね。ねぇ、ムッシュ。それじゃあ、まるで恋人を見つめている時の目のようよ」

あまりに情熱的で、妬いてしまう。
少女はそう云って、くすくすと可愛らしく笑った。男はそれでも黙ったまま。男の体は石かのように動かない。視線は金縛りにでもあったかのように留まったままだった。

「実は私、今日初めて本物の『彼女』を見たの。とても、綺麗だわ。言葉なんていらない。完成されていないのに美しいなんて卑怯ね。これじゃあ、ムッシュが虜になるのも判るわ。ねぇ、ムッシュの意見が聴きたいの。
『彼女』の失われた両腕は、一体どんなものだったと思う?」

初めからあったのかなかったのかでさえ判らない両腕。だからこそ、ビーナスの美をより神秘的に高めてきたのだ。誰にも答えなど判らない。

「────手を、」

低い、かすれた声を、少女は聞き止めた。でも顔はむけない。少女は黙って見つめたまま、男の答えを待った。今までずっと黙っていた男は、今確かに言葉を紡いでいる。
女神とまで謳われた至高の像から目をはなさないまま。

「…誰か、愛しいヒトと手をつないでいたらいいと…昔そう思っていました」
「何故?」
「こんなところに一人でいる哀しい『彼女』の両腕だけはせめて誰かといて欲しいから…。…愛しいヒトと両手を繋いでいて…どうしても離ればなれにならなくなったその時に、つないだ手は離さないまま腕だけを切り落として地上に出てきたのだと……思っていました。『彼女』は一人でもとても美しいから」

きっとその眼差しの先には、恋人でもいたのだろう。
少女は微笑んだ。それは、素敵ねと微笑んで告げた。

「ムッシュも…『彼女』の手をつないだまま離れたのかしら。『彼女』は触れるのをためらってしまう程、美しくも哀しく一人で立っていたわ」

男はその時、初めて顔色を変えた。無表情だったそこに、色がつく。驚いて、少女をみやった。帽子の下からみえる彼女の唇はでも矢張り笑ったまま。

「残念ね。ムッシュはそれを見る事ができなかった。でも、私はみたわ。この目で、はっきりと。その最期を見せつけられたの。
忘れられない。大輪の花が散ったかと思った。貴方が育てた花よ」

見事な花を有難う、射手座の守護をうけし私の闘士。

「……………アテナ、」
「迎えに来てあげたのよ。貴方は特別だから。でも、酷いわ。貴方、聖域とは反対の方向へと進んでいくんだもの。おかげで手間がかかっちゃったわ」

白い帽子をとると、茶色の長い髪がはらりと揺れてあらわれた。美しい髪を肩から背へとはらいながら、少女がようやく男を見上げる。

「最初から私だと判っていたのでしょうに。『彼女』の話をだしてようやく私を見るなんて。やっぱり、妬けてしまうわね」
「…アテナ…折角ですが…、私は」
「帰らないとでも云うつもり?云わせないわ。知ってるのよ。貴方が、聖域からわざと離れた地へ行こうとしていた事に。何から逃げたいのかしら?」

少女の可愛らしい笑みの中にある全てを見透かしたかの様な瞳を見て、矢張り彼女は女神なのだと男は思った。思えば、ちゃんと「女神」と対面するのは初めてだった。
「蘇る」前も、今も。見たのは未だ言葉をもてない赤子だ。

「忘れちゃいけないわ。貴方は『両腕』を奪ったのだから」

奪って、そして、永遠に不完全なままの美を生んだ。

「返しに来なさい。おかげで、未だ目覚めないままだわ」

誰、とは云わなかった。それでも、男は目を伏せる。
男の瞼裏に今映し出されるものが何なのかは女神でさえ判らない。

「………会っても、多分、また同じ事を繰り返すきがします」

だって、あれから自分は何も変われていないのだから。

「そうね」
「…拒まれると思います」
「そうね」
「私がいれば、きっと苦しむでしょう」
「そうね」
「…………逢いたく、ありません」
「そうかしら」

碧の瞳が、少女を見た。少女は笑う。笑って、そして、再びビーナスを見つめた。

「『彼女』は腕を奪われて幸せになれたのかしら。手を握っているからといって、何?
泣きたい時、手がなければ、その雫をぬぐう事さえできないわ」

少女が、男へと手をさしのばす。
考える時間なんてもうあげないわ、と云って。

「私は、こう思うの。ビーナスの両腕はね、きっとこうして誰かに手をさしのべていたのかもしれないわ」

地上に降り立った女神であり少女であるヒトの微笑を見つめ、男…アイオロスは小さく笑い返した。自分が帰らないといえば、彼女もずっと此処にいるだろう。仕方ないと理由をつけて、その手をとった。

少女の手は小さく、温かかった。




074. 博物館 (041225)
私に表現力がないという事がよく判った。そして、美術館になっててすみません…。ルーブル、行きたいです。