いつだって、判っていた。
昔からずっと、気付いていた。

そこは、触れてはならない二人だけのエデンの地。





「それでも、私は願ってしまうのだ」

彼が、ぽつりとそう呟いた。世界は未だ、薄暗い。夜明けまではあと少し。今はまだ、星が眠れぬ子を見守る光を宿す。
先程までずっと重たい沈黙を保っていたそこに突如としておちた言葉は、シュラの顔をあげさせ、アフロディーテの目を伏せさせ、デスマスクの視線の先を星空にやってしまった。

「あいつが再びこの地に戻ることを、いつも願っていた」

だって、あいつは聖域の一部なのだ。呼吸に等しい。アイツがいてこその聖域であった。だから、今その存在を欠いた此処は酷く息苦しいのだと。
独り言に近い言葉の羅列はただ神殿内に響いて吸い込まれていく。

「あいつが、私の全てだった」

それが、恋だというのか。愛だというのか。そうじゃない。そんなものではなかった。
ただ、「彼」がいたからこその世界がそこには在っただけ。
あの遠い日。ただただ愛おしい青空さえ、今はもうない。
あの日、皆で笑っていた。それが、私達の世界だった。

「…裏切るのか、」

ぽつりとシュラがそう告げた。何の感情もこめられていない眼差しが、教皇の座につく者を見つめる。教皇の仮面を被った男は小さく笑った。
シュラにとって、それは裏切りの言葉に等しい。

「裏切りも何も、私達の間にはなかっただろう?私は何も云ってはいない。お前達がただ勝手に付いてきただけだ。それだけだ。あるとすれば、それは罪だ」

罪と罪が繋ぐ、絆。
────英雄を、殺した罪で繋がる。
皮肉気に笑うその人物の瞳が今何色に揺らいでいるのか知りたかったが、どうでも良い事なのだろうとすぐに気付く。どちらもどちらであって、一つだった。
目で見ようとすれば判らない。けれど、本質は同じだった。どちらも、弱く儚く───唯一つのものを、手に触れられないものを求めていた。
ただそれだけだった。

「好きにすればいい。私は何も云わぬよ。騙されていたと云えばいい。云えば、あの慈悲深いといわれる女神がお許しになるだろう。勝手にしろ。ただし、」

「彼」の帰還だけは、妨げるな。

「殺したくせに」

未だ星を見つめるデスマスクが、小さくそう呟いた。眼差しは遠く。仮面越しからも判る、教皇がデスマスクを視る。見られている事が判って、彼は笑う。

「あの日、───アイツが死ななければどうなっていたんだろうな」
「私が死んでいた。ただ、それだけだ」

共に生きる事が出来なかった。ただ、それだけ。
教皇が立ち上がり、踵を返す。

「───サガ!」
「瞑想の間に行く」

告げて。そうやって、去るというのか。
アフロディーテがなおも叫んだ。叫びがこのまま闇夜を引き裂き、朝陽を招いてもいいから。だから、どうか。彼を、止めて欲しかった。朝陽が全ての罪を暴いてもいいから。

「私達は、貴方を死なす為に此処までついてきたんじゃない!」

歩みが、止まる。

「それでも、貴方は行くと云うのですか?!」

「彼」を、また、欲し、滅びるというのか。
(共に生きる事のできない「彼」を欲するという事はつまり、)

「サガ!」

別に、此処へ辿り着きたくて、13年間生きてきたわけじゃないというのに。だからといって、他にどんな未来も思いつかない。だとしたら、矢張りコレがあるべき未来だったというのか。これが、女神の望んだ未来なのか。なら、女神こそが一番残酷だ。

「アフロディーテ」

静かな声だと思った。静かな…そう、寝かしつける前のサガのあの優しい声に似た。もう、遠い昔。
彼が振り返る。仮面がはずされる。久しぶりに見る素顔。あのころと変わらない。変わらない。横に、あの太陽の匂いがする男がいれば…きっと、あのころのまま。

「今まで、ありがとう」

穏やかな笑み。満たされた微笑。
そう、全ては終わりに向かって、満たされようとしている。

「シュラ、デスマスクも、」

足下から、星々から、二人は目をようやく離し、その青い双眸を見つめ返した。
穏やかだった。穏やかな、夜明け前。
生まれたばかりの朝陽が、さしこむ。彼を、照らす。光が包む。

いつかに誰かが云っていた。
サガは、光こそが一番似合う。
共に生きたいと、その男は、告げていた。

「ありがとう」

13年間。一度も見る事のなかった穏やかすぎる彼の微笑みだった。



サガが瞑想の間に入った後もしばらく三人はそこにいた。最初に動いたのは、デスマスク。太陽は、もうすでに昇りきった。何も云わずに出ていこうとするデスマスクに告げたのか否か、未だ瞑想の間をみつめるアフロディーテが静かに呟く。

「……結局、13年前と同じく、アイツが連れて行ってしまったのだな」

もう、手も届かない地へ。心も…そして、魂も。
そこに、名を付けるとすれば、それは。

「アフロディーテ」

シュラが名を呼ぶ。それ以上の云うべき言葉などないけれど。デスマスクも、立ち止まったまま。これが、きっと、最後だ。

「それでも、俺達は進むしかないだろう」

此処が、辿り着いた果てだというのならば。
二人がデスマスクを見た。最後だ。これで、終わりだ。判っているのに、何故こうも穏やかな朝なのか。
前にもこんな日があった。あれは、そう…あの英雄が死んだ日の朝。

「最後まで、その魂を見守ってやるよ」

それが、あの英雄と交わした最後の約束だった。

今日、その英雄の意志が、女神とともに還ってくる。
13年間ずっと待ちわびてきた記念すべき日だ。


長すぎた夜が、ついに明けた。




052. ありがとう (041013)