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よくは覚えてはいない。 ただ、指先から感じる痛みだけは、今もはっきりと覚えている。 「……いたっ…」 小さな棘にあやまって触れた途端、指先にぷくりと血玉がふくれあがってきた。 痛みとともに流れる血を、アフロディーテは舌先で舐める。 血は甘くも不味くもなく、少し鉄がさび付いたかの様な味だけがした。 そのとき、ふと、空気がきしむ。 この神殿に、自分以外の人物が入った兆し。 流れ込んできた見知る小宇宙を感じ、アフロディーテはぱっと顔をあげた。 「…サガ!」 名を呼べば、サガはいつもの様に柔らかく微笑んだ。 月夜に、彼の黄金の聖衣が眩げに煌めいて見える。 「サガ、こんな遅くにどうしたの?上の教皇さまの処に行くの?」 「……ああ、ちょっと用事があってな…。それより、アフロディーテ…また薔薇の棘で怪我したのかい?」 「うん…棘を全部とって、生まれたばかりの女神様に差し上げたいんだ」 「…そうか。女神もきっとお喜びになる。手伝おう…」 云って、サガはテーブルの上におかれた薔薇を一本とり、その刺をとっていった。 素手で、棘にためらう事なく一個一個、丁寧にとっていく。 かわりにサガの指先は棘で傷つき、傷口から血があふれ流れでた。 「………サガ…?」 「……………」 「サガ、いいよ。そんな…痛いでしょ?」 アフロディーテがそう云うが、でも彼は止めずに、傷つく事にかまう事なく、やがて棘を全部取り除いてしまった。 そして、サガの手は血にまみれ、ぼろぼろになってしまう。 血が、白いテーブルの上に、ぽたりと落ちた。 赤い。 まるで、薔薇の花びらの様だと、一瞬だけ思った。 でも、それでも、それは彼の血なのだ。 アフロディーテはその時にしてようやく、サガの瞳が光をさしていない事に気付く。 昏い、混沌。迷い複雑に揺れる色。昏い、くらい…。 陰りをおびた表情だった。 「……サガ、どうしたの…?何か、あったの…?」 サガは普段見たコトのない、どこか苦しげな顔をしていた。 「何もないよ。お前が心配する様な事は、何一つ」 「…でも、手…」 「女神がお喜びになる事なら、私は傷つく事など構わないだけだ」 告げた声音は、でもどこか実のともなっていないものにも聞こえた。 どこか空空しくも感じられる口調。 ますます普段のサガと違っている様で、アフロディーテは戸惑うが、そんな彼を無視して、サガは踵を返した。 「もう行くよ」 白いマントが翻る。黄金の鎧が煌めく。 その瞳は─── 一瞬、ぞっとする程に赤く思えた。 「…………サガ、何処に行くの?………」 「何処も。教皇さまのもとだ」 「嘘。私たち置いて、何処に…一人で行こうとしているの…?」 「何処にも行かないよ」 「嘘だ、嘘だっ…!今日のサガはおかしい!」 何故だか、とりとめのない不安だけが押し寄せてくるのだ。 それは、多分、サガの小宇宙がとてつもなく不安定で…今にもはじけて消えてしまいそうな程だったから…。 いつでも絶やさぬ微笑が、でも今はとても儚げなものだと思えた。 このまま消えてしまいそうに、アフロディーテには思えたのだ。 何処か、遠くに、一人で……。 そのとき、サガがふ…と笑った。 「─────じゃあ、お前も私と一緒に来るか?」 手が、アフロディーテにさしのべられる。 血まみれの真っ赤な手で。 ぽたりと落ちた雫は、やはり、薔薇の花びらの様に思う。 でもそれよりも、サガの瞳の色の方が、より濃く赤かった。 美しい薔薇には、鋭い棘がある。 それでも、触れようするのは、 手をのばしたくなってしまうのは、 それは、多分 ───どうしょうもなく、好きだからなのだ。 触れれば、自分の手も血まみれになる事が判っていたが、それでもアフロディーテはためらわず手をのばした。 044. 棘 |