突然、大きな物音がその部屋の中から聞こえた。
何事かと、教皇に渡すはずだった書類を手に、シュラが扉を乱暴に開け、中に入る。

最初に目に飛び込んできたのは、綺麗な白のテーブルクロスがしわくちゃになり、整えられていた夕食の準備が汚らしくあたりに飛び散った様子である。
そして、その散乱したテーブルの横では、───神官である男の首に、食事用のナイフを突きつける教皇、がいた。
赤い瞳をした男は、口をゆがませ、にやりと嗤った。


いつかのあの日にも、同じ笑みをみた覚えがある。






028. 傷痕





カランと、渇いた音が室内に響く。
玩具に飽きた子供かの様に、教皇が放り投げた銀のナイフを、シュラは一瞥した。
先程、あの鋭利なナイフを首に突きつけられた男は、他の神官達によって牢へと入れられた──シュラが止めに入らなければ、きっと命がなかっただろう。刃を突きつけた教皇の目は、シュラでさえぞっとする程の恐ろしさを秘めていた。彼は、殺すつもりだったのだ。


「大方、私によって肉親か知り合いかを殺された者だったんだろう。以前よりも増して、最近は殺した人間の数も増えてきたしな。」
「────彼は、何をしたんですか?」
「特に面白味もない。食事につこうとした私の胸を、真っ正面から狙って、刃物で刺そうとしただけだ。」


そんな簡単なてで、私が殺されるわけないのにな。
教皇は告げ、椅子に深く座りながらゆったりと笑んだ。禍々しい程に赤い赤の瞳が、愉しげな光をみせる。


「どうせなら、背中から刺せば良いものを。未だ、どうにかなったかもしれないのにな。
シュラ、お前は、アイツの背から刺したか、それとも莫迦正直に前から刺そうとしたのか?」


傷痕が、じくりと痛む。


「……真正面から、狙いましたが、」
「フン、だから即死させられないのだ。赤子とともに殺してしまえば良かったものを。」


嗤って吐き捨てられた言葉に、シュラは目を伏せる。
瞼裏に描かれたのは、いつかのあの日。

真に傷痕がえぐられているのは、俺か。誰か。


「私の真正面に立ちながらも、拳一つ向けてこなかった男もいたな、」


いつもなら真っ直ぐと物を見据えるその赤の瞳も、でも今だけは伏し目がちとなる。続けて、何かを紡ごうとしたその唇は、軽く開かれただけででも結局何一つ紡がれない。
そうやって、いつでも「真実」を覆い隠そうとする。遠ざける。

化膿していく傷口を、痕にも出来ず、血を垂れ流す。


「────…教皇、」
「なあ、アイツは最後、どんな顔を、どんな言葉をお前に残した?恨み言か?懇願か?それとも、教皇の『正体』か?私への憎しみと呪いの言葉か?」


何度も認識しなければ、保てない。何度も傷口をえぐらなければ、安心できない。
傷痕なんかいらないのだと、声なき声は毎夜の星に唄う。




「……もう、いいですから。」
「─────────」
「もう、いいですから。サガ。」



その腕を、とる。
漆黒の法衣にかくされていた白い腕をさらせば、そこには赤い線が一筋走っていた。
先程の男につけられた傷か。判るのは、その傷を彼が誰にも云わず、放っておこうとしていた事だけだ。赤い、赤い、呪縛。
あの日、流された尊き血の赤が、自分たちをいつまでも縛り続ける。
─────取り戻せない過去に。


「手当て、しましょうか?」
「……好きにしろ」


癒える事のない傷痕を、いくらえぐり返せば、消えるのだろうか。




「何も、残さなかったんだ。確かなものを何一つ、」


白い包帯を巻かれながら、視線を何もない宙に漂わせた赤い目の男がそう呟く。
シュラは、黙って聴いた。


「風の様に、本当に鮮やかに存在を消失させたんだ。最初からなかったというかの様に。記憶の中には確かに今も存在するというのに、証がない。…せめて、あの日、傷を一つでもこの躯に残してくれたら、…まだ信じられた。今では夢の様だ。あんな奴が、存在していたという事が。」
「………傷なんて、すぐに消えてしまうだけですよ。」
「傷とともに、全部が消えてしまえば良いのにな。」


それが出来ないからこそ、厄介な存在なのだ。
告げるそのヒトの瞳は、赤なのか蒼なのか、一瞬判らなかった。



風のようなあのヒトが残した大きな傷痕は、今も自分達を苦しめ続けている。