「もう、いいんだよ」



彼は、そう云った。



「もう、どうでもいいんだ」



告げながら、彼は、籠の中から取りだした鳥を、空へと放った。
青空の中へ飛び立っていく翼もつ鳥を見つめながら、彼は確かめるかの様に呟く。



「どうなっても、もういいさ、どうせ」



飼っていた大切な鳥を空へとかえした彼はこちらを一度も見るコトはなかった。
あの空の色に近い色をもつ双眸を、自分は、結局もう見るコトはかなわなくなるのだ。

彼は、次の朝────聖域から消えた。











「もう帰ってくる事ないだろうな」


事も無げに、デスマスクはそう云った。


「こんな処に、帰ってくる理由がない」
「…彼は、女神の聖闘士だ」
「志願して来た奴なんか、此処にはほとんどいやしない」


告げて、デスマスクが嘲笑う。対するシュラは閉口した。
デスマスクもシュラも、戦で親をなくした子だ。行く処がなくて、金と交換に聖域に来た。望んで此処に来たわけではない。ふと、デスマスクがアイオロスの方に振り向いて、突如問う。


「なぁ、アンタだってそう思うんだろ、アイオロス?」
「─────さぁ…」
「んだよ、そんな曖昧な、」
「もう、オレには何一つ判らないよ」


結局、彼の声にだせなかった言葉の一つでさえ、自分は拾いきれなかったのだから。


彼が時折、何かを云おうとして口を開くのは知っていた。だから、「何か云った?」と聞き返してきた。でも、彼は一度も、その答えをくれた事はなかったのだ。
ただ、曖昧な笑顔をむけるだけ。
いつも、いつも、彼が云おうとして止める言葉。
それが未だに何だったのかは知らない。
けれど。
もう、彼は、決してその言葉を口にする事はないのだとは判る。

最後に彼を見た時、彼が鳥籠を開けた時、その時に、云っていた。

『もう、どうでもいいんだ』

彼が、紡ごうとするのをあきらめたのだと、何となく判った。


気付けば、双児宮に来ている自身に驚いて、思わず笑った。上手く笑えないまま、もう誰もいないその宮の中に入る。一歩、二歩。微量に感じるのは、懐かしい彼の小宇宙の残り香だった。
よく、この宮の中でも遊んだ。聖闘士になっても、彼と遊んだ。修行の合間合間にも遊んだ。自分達は、本当によく遊んでいたと思う。二人で、そうやって、何も難しい事など考えずにいられる時間が楽しかったのだ、酷く。一日中、彼と修行か遊びかを繰り返していて、だから多分、彼といた時間は弟といる時間よりも本当に長いと思う。二人きりで、遊んだ、懐かしい過去。
それでも最初の頃は、二人きりじゃなかった。
もっと、たくさんの仲間がいたのだ。
でも、どんどん減っていった。
戦で死んだり、青銅に行ったり、聖域を逃げ出してしまったり…。
いつしか、二人きりになっていたのだ。
ああ、そう、気付けば二人きりになった頃、彼が告げた…。


『大丈夫だよ、私とお前が残ったのだから。一人じゃない。二人なんだ、私達は』


────二人、だった。二人だから、此処まで来られた。
なのに……。


「……お前まで、行くとは思わなかったよ……」


そんなふうには見えなかった。自分は、何一つ判っていなかったのだ。そして、彼は、そんな自分には何一つ告げられる事など出来なかったのだろう。
一番苦しめたのは、自分なのかもしれない。


ぴよ…、


可愛らしい鳴き声に聞き覚えがあって、アイオロスは思わず顔をあげる。真っ直ぐ前には、彼の私室の扉。その中から、確かに、聞こえた声…。
ゆっくりとドアの取っ手に手をかけ、開けた。
この部屋は、最後に彼をみた場所でもある。

開けた途端、頬に吹き付けてくるのは心地よい微風。
窓が、あの日のまま、開いていたのだ。


「……………帰ってきてたのか、お前」


思わず、笑った。久しぶりにちゃんと笑ったせいか、頬の筋肉が痛い。
窓辺にとまる小鳥は、こちらを不思議そうに眺めてくる。
小鳥───あの日、彼が空にかえした鳥だった。


「折角、籠から出られたってのに。莫迦だな」


籠の鳥が、大空にでる事は辛いだけなのかもしれないと、ふとそう思った。籠の中から見ていた空は自分の視界にゆうにおさまるものだが、籠の外にでれば違う。空は果てしない、果てがない。あまりの大きさに戸惑うかもしれない、飛べないと思うかもしれない。
それに、大空を自由に飛べたからって、どうなる。


「……ああ、本当に莫迦だね…お前も、お前の主人も、」


一人で、空を飛んでどうするのだ。
一体、どうするのだというのだ。
大きな大きな蒼い空で、一人きり。
寂しいだけじゃないか。


「だから、お前は帰ってきたんだな…」


前まで入っていた籠を見つめながら首を傾げる動作を繰り返す鳥をみながら、また微笑む。でも、今度のは、どこか寂しげに。
小鳥を、両手で優しく包んで、掴まえた。


「………お前は、籠のもとに……アイツの元に帰ってきたかったんだな、」


毎日、毎日、忘れる事なく餌をやり、慈しみ育ててくれたヒトのもとへ。そこがとても居心地良かったから。



ああ、そう───結局、君の事は何一つ分かり合えなかったのかもしれない。オレ達は、駄目だったのかもしれない。でもそれでも…。
知ってる。知ってるよ。
君が、本当に、優しかったんだという事は。




君がいくら、否定しようとも、オレの眼から見た君は本当に優しかったんだよ。




006. 籠の鳥