たとえばもしも、ロス兄が生きていたら……の話。


今でも鮮明に覚えている光景がある。

美しい星々が空を彩った夜。揺れる灯。憎悪をばらまく声。煌めく刃。鮮血。頬をなでていく風が気持ちよくて泣き出すのも忘れていた。
おぼろげな意識の中、はっきりと思い出せるのはこぼれていった一滴の涙。


***


「時折、それを夢に見ますの」
「…そうですか」

静かに微笑むその顔が好きで、少女はふふっと笑う。無邪気に笑う少女をみて、青年は更に笑みを深める。細めた翡翠の色も少女は好きだ。ふと青年が横たわるベッドサイドの窓から、今の静かな雰囲気にそぐわない子供達のはしゃいだ声が入り込んできた。陽にすける白いカーテンが風をふくんで、蒼い空をのぞかせる。

「最近、また孤児をひきとられたのですわ。数が増えてしまって…」
「元気そうな子供達ばかりだ」
「窓閉めますわ。うるさくありません?」
「いえ。弟達を思い出すので懐かしいです」

そう云って窓の外をみながら微笑む横顔を、少女はむっとして見つめた。その横顔は好きじゃない。その笑い方は自分にはしないものだ。何をみて、そんなに嬉しそうに微笑むのだろうか。でも少女は何も知らない。真正面からその笑顔を見たこともない。

「弟さんがいただなんて、初耳ですわ」
「云ってませんでしたっけ」
「貴方が何処の誰かも、私は全く知りません。どうしてそのように寝たきりになっているのかも。お爺さまは何もおっしゃって下さらないし」
「それは、本当に君を大事に思ってくれているからだよ」
「ねぇ、名前ぐらいは教えてくださらないの?」

青年は誤魔化すように笑う。いつでもそうやって笑みの中に封じてしまう。

「意地悪な方」
「私の素性以外ならば答えてあげますよ。たとえば、空は何故蒼いのか…」
「じゃあ、貴方は誰が好きなのですか?」

笑みを崩さなかった彼の顔からようやく笑顔が消えた。眼を丸くして、少女を見る。その表情に満足して少女は笑んだ。

「また随分と突拍子もない…」
「空の話をする貴方が悪いんですわ。貴方、暇さえあれば空ばかり見ているんですもの。まるで、空に恋したかのように。空を見たいが為に窓も閉めてくださらない。ねぇ、空に誰を重ねているの?」

少女の大きな瞳に問われ、まいったなと青年は苦笑する。そんなに見ているつもりはなかった。以前にも同じ事を云われた。

「貴方はいつか翼をはやして、空に帰ってしまうのかしら」
「翼なんか生えやしませんよ。私は人間なんですから」
「じゃあ、何故ヒトは翼を欲しがるのかしらね」
「何処か遠くに行ってしまいたいからでしょう」
「貴方も?」

今度は声をあげて青年が笑った。あははと笑った後、いつもの笑みを取り戻して告げる。

「私はもう何処にも行けませんよ」

何処にも行けないから此処にいるんです。

「…何処にも?」
「そう何処にも。帰る場所はあの青空に奪われてしまった」
「青空が奪ったのですか?」
「青空があまりにも美しいから油断して」

細められた翡翠を少女は真正面から見つめかえす。その微笑み方は、青空を見ている時のと同じだと気付いた。

それから数ヶ月後に、青年は姿を消した。何も知らないと云って彼の消息を一切教えてくれなかった光政はその何年後かに少女が「女神」だという事を告げ亡くなった。


***


女神を追いやり聖域を欺いた諸悪の根元が自害し、ようやく聖域に平穏がもたらされた後、女神は今は無人の人馬宮に一人訪れた。宮の中心には、亡き主人のかわりに宮を守護する聖衣が静かにたたずんでいる。この聖衣だけは聖域に必ず持ち帰ろうと思っていた。此処に帰してあげようとずっと願っていた。何処にも行けずに終わってしまったであろう彼のかわりに。
女神の瞼裏には今もあの日の事が鮮明に思い描ける。星空。灯。声。刃。血。風。────そして…。

「ずっとあれは貴方の涙かと思っていましたけど……違ったのですね」

先日、女神の目の前で罪を厭い自害した男の涙を思い出す。瞼裏に残る記憶の涙に似ていたと、今にして女神はそう思った。


「お帰りなさい、空に恋した英雄さん」


今日の聖域の空は、よく晴れていて美しかった。



2 あの日の憧憬 (050326)
沙織さんの喋り方を未だに理解してません。女神とロスが書きたかっただけ。