大嫌いだった。心底、憎んでいた。憎悪しきっていて、手が震え、喉が切り裂けそうな悲鳴をあげていた。嫌いだった。殺してしまいたかった。いっそ、うまれてこなければよかったのだと。
何度も唇はその言葉を繰り返し紡いで、絶望の海をさまよう。

「…泣いているんだね」

低く、知らない声は唐突に少年の目の前にかたちとして現れた。白い衣が眩しくて、顔がよくみえない。ただ、翡翠の色の瞳だけが判別できた。
たとえ今蹲っている少年が立ち上がったとしても高いであろう背丈の持ち主は、しかし優しげな笑顔をつくる事によってその威圧感を削いでしまっていた。ヒトとヒトの堺をうやむやにしてしまうその類の笑顔を少年はひどく嫌っていたというのに。

「…ないてなんか、いない」
「そう。できるなら、泣いて欲しくないんだ」
「……あなたには、関係ない」
「…君が泣いてしまうと、揺らぎそうになるから」

うそつき、と唇だけで少年が返した。それをみた翡翠の色が少しだけ驚いた色を宿して、でもすぐに困ったような、さびしそうな瞳で少年を見つめてくる。それが判ったのは、男が膝を地に着け、少年と目線の位置をあわせたからだった。翡翠の瞳が近いと思った次の瞬間には、男の大きな掌が、少年の視界を塞いでしまったが。 暗闇の向こうで男がささやく。

「未来を変えたいのならば、今此処で俺の魂を、輪廻を、殺せばいい」

君の魂と、今の世で出逢わぬように。傷を。

「……未来…?」
「今よりも深い絶望を知る未来だ」

声は低く冷たいというのに、その触れる指先は泣きたくなるくらい懐かしいぬくもりを宿していた。だというのに。

(なんて、勝手な男なのだろう)

手探りでのばした指は、その男の首に触れたかったのか、それともその翡翠の瞳をもう一度見ようとしたのか。
自覚する前に、強く、ただひたすら強い声音で、   に名を呼ばれた。



***



「サガ、」

実際きいてみれば、それはささやきにも等しい小さな呼び声だった。夜の静けさを破らない慎重さでもって紡がれた名。
いつのまにか自分は半身だけを起こして、四角く切り取られた夜の闇をみていたらしい。シーツからこぼれ、あらわになった肩が冷え切っていた。

「…何処かへ?」

そう問う声音につられて、サガはゆっくりと振り返る。未だシーツの海に埋もれた少年が、こちらの手を捕まえながら訊いたのだ。
星明かりひとつない闇の中でも、その翡翠の色だけがはっきりと判った。

「………死ななかったんだな、」
「へ?」

では、今彼に捕らえられている手は、一体何を夢の男にしたのだろう。考えても意味のない事ではあった。夢の中の事などすぐにこぼれ落ちてゆく。

「…サガは、そんなに俺に死んで欲しいわけ? 今日何回その言葉を口にしたんだか」

わざとらしい溜息はしかし、本当は彼にとって些細な事でしかないという証であった。死なない、殺されないと思っているわけではなく、真実、死んでもかまわないのだ。だからこそ、サガは何度もあてつけのように口にした。事の最中でさえ、睦言ではなく、ありのままの感情を言葉にした。

どれだけ俺は君に触れれば良いのだろう、と笑ったのは彼であった。

「確か、誕生日の時もそんな台詞を…」
「厳密にいうとあれとこれは意味が違う」
「俺にしたらどっちも一緒だよ。俺は、今ここで君と生きて、」
「判ったから、手を離せ」

返答を待つのも嫌で、すぐさまその手を振り払ったが、逆に失ったぬくもりの印象が強く残っただけであった。少年は邪険にされた己の手を見つめながら、ぽつりと言葉を落とす。

「…でも、たとえ、死んだとしても俺は、」

死んでも、また君を好きになるよ。

(……………つまり、先程のあれは結局、どちらを選んだとしても意味がなかったのかもしれない)
何かを掴もうとした掌を思い出して、でもすぐにどうでも良くなった。掴んできたぬくもりの方が、今は、いたい。

「で、結局君は、何処へ行こうとしているの?」
「………帰るに決まってる」
「外は、雪だよ」

にんまりと悪戯気に笑う少年に驚いて、窓の外をよくよくみれば、常と異なる夜空であった。凍てついたこころに、ふんわりと降り積もっていくような。弱々しく優しげでありながら、遠慮などせず積もっていくそれは、まるで誰かのようだった。いずれ、こころをそれで満たしてしまうのだ。
しかし、それがどんな色なのか。まだ、色の名は知れず。

「雪がやんでから帰れば良いよ」

シーツの中にサガを包み、そのまま両端をするすると引き寄せる少年が、さもそれだけで満たされているような顔をしているものだから、サガも抗うのをやめた。
触れあえば触れあう程、心が遠くなると互いに知っているのにも関わらず繰り返すのだから。
あの男がいっていた「輪廻」という何かも、それと同じなのかもしれない。
いつまでも、遠く。

「このまま、雪の中に一緒に埋もれてしまえれば、救われるのだろうか」

あの、夢の男もまた。共に。
判っているのかいないのか、少年 アイオロスも「そうだねー」と適当な返事をしながら、ふ、といつものあの笑みをみせた。
サガの、きっと生まれる前も、生まれた後も大っ嫌いな笑み。

「でも、一緒に埋もれてしまったら、君を救い出す人間がいなくなるから駄目だな」



彼と、出逢わなかった未来など、今更想像すらできない。



夢と雪と、男 (071231)

※夢の男=シジフォス…とか言ってみます…。行方不明中のシジフォスの魂は、時空を越えて来世(サガ)の処に迷い込んじゃえばいいってずっと思ってたので、そうなりました。
ロスは「好き」という気持ちだけでどうにでもなると思っていて、サガは「好き」という感情だけじゃどうにもできないアイオロスという存在に歯がゆさを感じてま、す。